シン・現代詩レッスン76
鮎川信夫「詩がきみを」
『(続続) 鮎川信夫詩集』 (現代詩文庫 )から「詩がきみを」。副題に「石原吉郎の墓に」とある。鮎川信夫と石原吉郎を結びつけたものが「詩」という世界なのだ。石原吉郎は失語症の詩人というよりも、コミュニケーション障害の人だったと思う。同じことは鮎川信夫にも言えるのではないか。戦時を生きて死んでいったMとの世界。その世界から戦後復興のアメリカがもたらした豊かさへ。その中の自分に同一性を持てずに、コミュニケーション障害を起こしていたのではないのか。鮎川信夫の詩に惹かれたのはそういうことだと思うのだ。
鮎川信夫と石原吉郎のコミュニケーションについて、その失敗を想起する。それは「生きることの断念」という抽象的な言葉。
それは生物学的に生きることなのか、あるいは詩の中に生きることなのか。その違いだと思う。理念として生きていくのは戦中派と戦後派では違った概念があるのだ。廃墟の日本と復興の日本と。
自然の馬は蹄鉄を付けるわけではないが、人に家畜として飼われ競走馬という理想の馬になるには、蹄鉄が必要だ。しかし、それは野生としての馬を終わることだ。
喪失した世界を詩歌に求めるというのは詩人として珍しくもない。ただそれが「残された唯一の道」と強迫観念的に思うのはシベリア抑留者として生きることを願い続けた者の飢餓状態からくる安心できる場所なのかもしれない。
「北篠や足利の美しい光景」は古典文学の面影だろうか?それは一般の人にはぞっとするような詩なのだろう。そういう詩の世界と現実世界のギャップ。その苦しみはあまりにも理解されない世界だからなのか?本人が詩を書くのが苦しくなったのか?
鮎川信夫の優しさだろうか?死者に対しては優しいんだよな。「詩がきみを」というのは詩の世界がきみを求めていたということだろうか?