分かる人だけの俳句でいいんだろうか?
『俳句 2024年2月号』
『角川 俳句2024年2月』を読んで一ヶ月になるのになかなか読み終わらない。短歌も難しいが俳句はさらに難しいと感じてしまうのは作るよりも読みの部分だ。言葉の共通性がないと言葉は理解出来ないものだが、時代的背景とかよりも俳句言葉が外国語のようだというのがあるのかもしれない。文語とか旧仮名とか漢字もとても素人では読めない漢字を平気で使う例も見られるのだ。ベテランは塚本邦雄の当用漢字に腹を立て(権力が言語を支配するのは許せん!)という気持ちで正字(康熙字典)を使うのもわからないではないが、このネット時代にそれで筆記しようとするととてつもない労力が必要なのだ。それは半ば教養主義のように思われているのだろうか。
すくなくとも生活語でありたいと思うのだ。難解漢字を使う俳句界について、編集者の人から意見があったが、それが全く受け入れられない世界なのだ。そんな俳句ならさっさと滅んでしまえばいいと思いたくなってしまう。優しさがないのだ。
無論そこで努力した人が報われるのだろう。だがそれが詩心と言えるだろうか?そんな知識ならAIに任せて俳句を作っても同じだと思ってしまう。AIに康熙字典をインプットして季語を与え、「文章にせよ。ただし韻文で」とかで俳句を詠ませて読者は感心していればいいのである。
また内輪(座の文芸として)で難解漢字推奨の師匠がいたらそれに従わなければならないのか?別に従わなくてもいいのだろうが、そこではいい俳句とは認めてもらえない。少なくとも師匠が感心するような難解漢字を知っている必要があるのかもと思ってしまう。句会でも難解漢字を使う人がいるが、まだ句会だからいいと思うのは、俳句という座の文学なのだから、先行句とかで使ってみたい漢字とかもあるはずなのだから、と納得させている。
そうした意味でも例えばオールド世代が若者言葉を知らないように若者も老人世代の漢字は知らない。驚いたのは結社で最年少が50歳とか。若者がいないのだ。結社によっては若者はただというところもある。まあ結社に入るのは退職後の仲間づくりか?そういう構造を誰も問題にしないのか?まず難解漢字は避けるべきだと思う。
合評はそういう傾向を知るのも面白いかもしれない。年代もベテラン、中堅、若手と三者三様なので。
三村純也「伊勢・丹波・吉備」
俳句雑誌は一句だけで評価するのではなく連句で読ませるということになっているのだ。プロとアマチュアの差は連句が読めるかどうかなのかもしれない。そのテーマとして「伊勢・丹波・吉備」というタイトルを見るとその古典的観光地の句だろうかと思うのだが。旅吟であるが、さすが観光地は詠まずに土地柄を詠んでいるのか。写生句のようだ。一番は「茸採」の句だとか。
井上弘美「南蛮酒」
似たような古典の観光地(芭蕉が詠んだ観光地)の句だが、こっちは観光地俳句のような気がする。こういうのは芭蕉が好きなひとはなるほどと思うのかもしれないが、芭蕉に興味がない人は意味を汲み取れないだろう。
朝妻力「亡き人のユニフォーム」
阪神タイガースにいた横田慎太郎という選手の追悼句のような。熱烈な阪神ファンなんだろう。
野球俳句だけではなく、一般的な秋の季節の俳句もあるが、それは作者の心情に沿ったものだろうか?
佐怒賀直美「広島」
旅吟が多いな。非日常だからか?広島だから当然「原爆」が出てくる。まあ、広島に行ったら誰もが「原爆」を読まずにいられないのかもしれない。紀行文的な俳句だろうか?
照井翠「呪いの棺」
戦争時事詠だった。現代では難しいテーマのようだ。当事者でないと、数多い時事詠に埋もれてしまう。まあ、ウクライナ人が詠んだ俳句にはなかなか敵わないと思うが、それでも詠みたいと思う意欲かな。
遠山陽子「未完の自画像」
いちばん読みたくないテーマかもしれない。そう言えば今月号に石田波郷の「俳句は私小説だ」が出ていた。それに反抗したのが藤田湘子であったという。俳句の想像力という問題。
第69回角川俳句賞受賞第一作という野崎海芋「月山」
読みづらい。難解俳句だな。どう読んでいいかわからん。意味は筍が御椀からはみ出るほどの朝餉に感動しているのだが、月山との取り合わせということはそれがおかずなのか?窓から月山が見えるとか。
観光地俳句なんだろうな。観光地俳句ばっかかよみたいな。そういえば、堀切実『「俳句」と「日常」』であえて旅するのではなく日常的な吟行するような俳句がいいとか書いてあった。でもそれが私小説的になってしまうのか?だから非日常を求める。そのへんだよな。日常詠なんだけど非日常のような世界観(想像力)なんだと思う。
俳句の省略
『角川 俳句2024年2月』から、西村麒麟選「省略の効いた名句50句」より。
論理はわかりいくいので実践的に省略の効いた名句50句を読んでいく。
吹雪が季語に詠嘆のかなは切れ字。山寺の仁王たじろぐような吹雪の意味で直喩かな。山寺の仁王と吹雪を対になっていて「たじろぐ」で繋いでいると見ればいいのか?僧ではなく仁王を詠んだことがポイントだという。
桜の満開を言っているのだが、もっと代わりの言葉があるような気がする。こぼるゝは梅のほうがいいのじゃないのか?下句は否定の詠嘆。「も」という助詞。「も」~否定形はなんかあったな。自己を投影しているから「も」なのか?いまが絶頂だと。
ただごと俳句のような気がするけど自由が一番という俳句なのだそうだ。オヤジの前ではそうは出来ないのかな?
よくわからん。耳塚というのは戦国時代とか負けた武士の耳とか切り取ったものを弔ったものだが、師走の風が冷たく寂しい様子をひろびろという言葉で描いているという。言葉が足りなくてよくわからんよな。
兜虫の威風堂々とした姿を端的に表現しているという。
これもわかりにくい句だった。正月の羽子板が汚れているけど美しいということのようだ。だから何?だよな。そうか汚れが美しいのではなく思い出が美しいということだった。言葉足らずだよな。それに羽子は板ではなくて羽根のほうだぞ。省略し過ぎだよな。
これはいい句かな。ただごと俳句に近いけど、妻の強さが出ている。夫婦の関係が良好なんて言っている。違うだろう。妻に文句を言いたいのだろう。
これもそれがどうしたのただこと俳句だよな。関東大震災時の東京市長の句だそうだ。足らないのは言葉も足らなかった。
端居は端っこに座っていること。季語がないようだが「稽古」か。「稽古始め」で新年。
これはわかりやすくて面白い。
大晦日の夜の月に雲がかかって残念に思う気持ちだという。雲がかかった月もけっこういいと思うがな。それを「よごれ(煩悩)」と排除する除夜の鐘が許せん!原石鼎と相性が悪いのは予想がつく。
省略は俗っぽさを排除せよということなのかもしれない。
意味のわからない句だが、山上憶良が鹿顔でそれを見たという俳句だという。句跨りなのだが、鹿顔とまとめたほうがわかりやすいな。「懐かしい」が省略されているのだそうだ。「山上憶良鹿顔懐かしき」でいいんじゃね。ぶつ切りに感じるのなら「山上憶良の鹿顔懐かしき」で字余りだが、「やまのうえの」が字余りだし、「の」のリフレインは音韻的にいい。伸び切った顔も鹿顔のようだし。
福笑いの情景の句。何が省略されているのだろうか?それがわからん。笑いか?「福笑い大いなる手に笑い抑えられ」とかの意味なのかな。笑いが重なるから、カットしたのか?
橋本多佳子に似たような祇園囃子の句があった。
両方とも響き渡る(聞こえる)という言葉が省略されて、映画の一コマのような場面なのが共通しているのか?
「しづかにしづかに」の動作が無音の小さき者を表しているとか。単にリフレインの巧妙ではないのか?
十月じゃいけないのか?と思うが師走の近さなのかな。十二月一月と寒さに向かっていく、未来も感じさせるという。
白居易の俳句みたいな感じだ。優雅さはあるな。初めての俳人。山口誓子の妹で芸者だという。
写生句。それがどうした句だけど。蜜柑が季語で聖性かな。蜜柑の匂いが立ち込める。酸っぱい蜜柑なのかもしれない。この人も初めての俳人。この人も實花と同じ芸者俳人仲間。
井上泰至「山本健吉──折口信夫──警句・寓意・滑稽」で季語について批評しているので、読んでみた。折口信夫は和歌の起源が神託としての諺だという。それが自然と相対することで言霊として掛け合うのである。
そして俳人の本質は隠者であるという。自然と向き合うことで自然と反転する自己を相対化させる。そして、季語はその暗喩化ということだという。メタファーとしての「寓意」は、山本健吉の「純粋俳句」にとって重要なポイントとなるのだ。それはフランス文芸批評家アランの芸術論であるのだが。このへんのヴァレリーとかフランス文芸批評の影響は、小林秀雄や桑原武夫の翻訳によるものだという。面白いのは純粋俳句の創作方法を指南しているところだ。
まず「歳時記」を見ずに自分で季語のイメージを掴む。次に「歳時記」でイメージに合う季語を探す。そしてその差異(ズレ)を確認して俳句作りに活かすという。面倒な作業だな。