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(1)愛知妖怪奇譚 甘酒の災禍 ー不二先生の処方箋ー

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 若い女性の奇病を専門として少し名の知れた先生がいた。名は不二という。医者でふじなど縁起でもないが、先生の場合は関係ない。年は三十過ぎと若いのだが、面相は恐ろしく老けている。近所の年寄り達も、冬になると青白さを増す顔色を心配がり、「先生、甘酒でも飲むかい?」と差し入れてくれるほどだ。
 先生の扱う奇病はだいたい怨念が原因である。自分の身に振りかかった災いを相談に来る女性が大半だが、時には知り合いの女性の様子がおかしいという話が舞い込むこともある。年が明けた一月下旬の大寒の日、待合室の年寄り達の話だと「甘酒の日」らしいが、見慣れない中学生の男女が訪れた。二人はまるでお揃いみたいに赤いセーターを着ていた。
 少年は髪が短くスポーティで一年中真っ黒そうな感じによく日焼けしている。少女はふんわりとした長い髪で、左耳の上に薔薇の髪飾りを付けていた。問診票に書かれた少女の名前は【花房英淋(はなふさ・えいりん)】とある。なので、太陽の王子のように健康的で威風堂々としている少年は付き添いらしく、一方の少女は霧の都で憂いを抱えたような面持ちで、なぜかごくわずかに酒粕――あるいは甘酒の香りがした。おおかた夜道で老婆に驚かされたかと疑った。
 訊けば、少女の弟達が、奇怪な老婆に出くわしてしまったようだ。
「近所に住んでる甘酒好きのおばあちゃんが……夜中にいきなりうちの弟達に甘酒をぶっかけてきたんです……。『甘酒はどうだい?』と聞かれて、弟達は『要らない』って答えたそうなんですが……」
 薔薇飾りの少女の相談は確かに深刻だった。日焼け少年もまた真剣な顔で状況を見守っている。
「お嬢さん、失礼ですが、お知り合いにお祓いに詳しい方がいらっしゃいますね?」
「あっ、はい。後輩の女の子のうちが神社なんですが、この話をしたら、『英淋センパイ、その状況のおばあちゃんには何を答えても甘酒をぶっかけられます』と言われて、その子のお母さんが『不二先生のところに行くといいよ』と教えてくれました」
 それで、これを先生に――と言って少女はポーチから和紙の書状を取り出した。書状は蛇腹に折ってあり、ゆっくり開いていくと、美しく達者な毛筆の字で依頼内容が書き綴られていた。差出人は大国山神社の出雲あや。まったくいつの時代なんだ、と不二先生は苦笑する。
 その書面は、若い女性の患いではないけど依頼者の若さに免じてお願い、と結ばれていた。少し誤解されている。先生は若い女性しか診ないのでなく、怨念がらみを扱うと若い女性の被害が多くなるだけだ。ともかく、先生は事が済んだら書状の主に少し遅いお歳暮を送ることにした。
「そうですか。出雲さんの頼みとあらば、なおさら本腰を入れましょう。早く対処しないと、あなたの弟さん達が流行り病にかかる可能性もある」
「えっ、甘酒で病気になるんですか?!」
 少女は驚嘆の声を上げた。
「この手のものは、その手のものでね――」
 カルテを書き終えると、先生は薔薇飾りの少女に老婆の異変の正体を告げた。
「お嬢さん、甘酒婆(あまざけばばあ)という狂態です」
「あ……甘酒……ばばあ?」
「根本的に対処しないと、あなたの弟さんだけでなく町中に流行り病が蔓延する恐れがあります。患者本人を見ないと処方箋は出せないので往診に行きます。幸いこの後は診察の予約はありません。では、急ぎましょう」
 先生は腰を上げた。追いかけるように少年も立ち上がった。この少年は診察室に入ってきた時から一刻を争うと訴える顔つきだった。甘酒婆の伝承は知らなかったとしても危険性を直感していて、早急な対応を求めるつもりだったのかもしれない。先生が濃紺の格子模様の外套を羽織ると、日焼け少年は動揺している少女の肩を抱いて起こした後、先生のほうを向いた。芯のある頼もしい付き添いだ。
「先生、少し遠いので、姉の車でお連れします」
「バイクで行こうかと思いましたが、迷わないほうがいいですね。乗せてもらいます」
 看護婦に急な往診が入ったと伝えて出ると、細い身を寒風が包み、息が白く曇った。日焼け少年の先導で駐車場に向かうと、若い女性が車から現れ、親しげに手を振ってくる。自販機で売られている甘酒の缶みたいに濃い赤色に染まったショートヘアで、冬なのにミニスカートでふとももを最大に露出させ、赤い革のロングブーツを履いていた。この女性も――甘酒婆の厄除けに赤が効くことを知っている様子だ。出雲の助言にも思える。
「姉の銀河です」「不二です」と自己紹介を手短に済ませると、銀河は笑顔満点で電撃的にウィンクした。
「フージンせんせっ、お願いね!」
 会ってわずか三秒で、不二先生は勝手に変なあだ名をつけられた。先生は邪気を吹く風の神ではない。

 断じてこの女性の助手席に座るべきでなかった。先生は、屋城銀河というよく喋る運転手に、出雲あやとの関係を根掘り葉掘り聞かれ、ほとほと話すことが尽き、雑巾を絞っても何も出ないというほど疲弊した頃に、問題の老婆がいるという家に着いた。


(続)



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