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後輩書記とセンパイ会計、神樹の大猫に挑む

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 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば「おから先生」とあだ名されるほど、学問に打ち込み豆腐屋からもらったおからで何年も飢えをしのいだと言われる江戸時代の学者、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)と学問を語り合うほどの人物にだってなれただろう。ふみちゃんは小学生時代、お母さんに教わったおからの精進料理のアレンジで「おからレシピコンテスト」で表彰されるほどの上級者だったらしい。そんなふみちゃんから、特製のおから入り弁当を持って『全国盆栽市』なるものに誘われた一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの和文化知らずで、数学が得意な理屈屋で、普段よく行く眼鏡店の前を通ったとき、なぜか眼鏡をかけた招き猫が表にいて、何事だろうと振り返ったところだった。
 今日の九月二十九日は、ふみちゃんの話によれば「くる(九)ふ(二)く(九)」(来る福)の語呂合わせから「招き猫の日」であるらしく、伊勢神宮の『おかげ横丁』の福招き猫祭をはじめ、日本各地で招き猫の記念祭事が開かれるそうだ。ちなみに、さっき眼鏡店の表にいた眼鏡招き猫は左手を上げていたようで、僕は眼鏡に気を取られて右か左かちゃんと見てなかったが、左上げは客を招く「千客万来」の意味なんだとか。
 おからとか盆栽とか招き猫とか、僕の頭では今日の趣旨がごちゃごちゃになっていたが、とにかくふみちゃんに導かれるままに『全国盆栽市』をやっている大きな公園に着いた。
「数井センパイ、盆栽の市って面白いですね」
 まだ入口でいきなり聞かれても面白いかどうかわからない。市というのは、眼鏡市場以外には瀬戸物市くらいしか行ったことがないと話すと、ふみちゃんは嬉しそうに「あっ、あの瀬戸でも招き猫の市をやるんですよ!」と身を弾ませていて、やっぱり盆栽の話なのか招き猫の話なのかどっちつかずだった。
 ふみちゃんは制服を着ていないと百パーセントの確率で小学校低学年に間違えられる小ささで、休みの日なので私服だった。今日はフードに猫耳がついたパーカーを着ている。背を気にしている割に、何でそんな小さい子に見られる服を着てきたのか疑問だが、とりあえず家に一匹置きたいほど可愛いので、せめて栄養満点のおからをたくさん食べて普通の中学生並みの体に成長できたらいいと思うのだけれど、僕はふみちゃんが今のままで十分いいと思っているので、余計なことは言わなかった。
 盆栽市とはどんなものかわからずついて来たが、係りの人に説明を聞くと、全国各地からいろいろな盆栽が出品されていて、北海道から順に各地の特色を生かした大小様々な作品があり、売店では盆栽を買うこともできますよ、と言われた。見渡すと、来ているお客さんはおじさんおばさんやお年寄りがほとんどだ。中学生なんか僕たちしかいないんじゃないだろうか。なるほど、ここは盆栽を趣味にしている人が楽しむ市なんだな、と確信した。和文化が大好きなふみちゃんはともかく、平凡な中学生の僕が来るのは半世紀くらい早い気がする。
「ふみちゃん、盆栽やってるの?」
「はい、お母さんが庭いじりと盆栽をやってます。数井センパイのうちはどうですか?」
 ふみちゃんの家は神社だ。庭というか庭園だけど、かなり大きい。あれは〝いじる〟というレベルを超えている気もするけれど、確かに、ふみちゃんのお母さんが大小様々なハサミで松の枝や植木を整えているのを見たことはある。
「いや、うちの家族はそういう趣味はやってないなぁ。お父さんがゲーム好きだから、普通にショッピングモールのゲーセンとか行くよ」
 ちなみに、ふみちゃんのお父さんは和楽器を何種類も演奏できるらしいし、何だか普通の家庭とは全然違う気がする。ふみちゃんとはこれだけ趣味の範囲が違うのに、何でよく一緒にいるんだろうと不思議に思うけれど、違うから逆に面白いのかな、と考えることにした。
 盆栽はテントの中にきれいに並んで展示されていた。横長のテントが回廊みたいに連なっていて、順番通りに北海道の盆栽から見はじめた。松の木のものが多いな、とか平凡な感想を持ちながら、東北、信越、関東という順序通りに眺めて回った。正直、札に書かれた解説を読んでも知らない漢字ばかりで難しいし、花の違いもよくわからないし、飾り方も似たようなものに見えた。でも、それは僕が盆栽をやったことがないからで、お母さんと盆栽話をできそうなふみちゃんはじっくり楽しそうに鑑賞していた。
 ふみちゃんと一緒だから嬉しいのはそうだけど、少し飽きてきて、あとはお弁当を食べたら午後はどこに行こうかな、とぼんやり考えていた僕はハッと驚いて足を止めた。関東地方の展示が終わったところ――会場の中央に、愛知県名古屋市からの出展品でとてつもなく巨大な鉢植えがあったのだ。名古屋と言えば金のシャチホコとかが有名だし、目立ちたがりな性格なんだろうか。他よりも圧倒的に大きな盆栽なのですごく目を引くし、何よりも面白いのは土から根っこが浮かび上がっていることだった。
 どういうものかと言うと、車くらいの大きさがある丸い植木鉢に、古い木の根っこが何本も鳥かごみたいに組み上がっていて、真ん中は空洞になっているのだ。盆栽は小さいものと思っていた僕はその堂々とした立体感に驚いた。どんなふうに植物を育てたら木の根にあんな空洞ができるんだろうか。見るだけでこみ上げる感動があった。
「ふみちゃん、これはすごいね!」
「はい……これは、大猫ですね」
 ん? ちょっと意味がわからなかった。何だろうと思って盆栽の説明を読んでみると、名古屋の中心地の小さな神社にまつわるものらしい。『大直禰子(おおただねこ)神社』と書いてあるが、ふみちゃんが大猫とつぶやいたのは何か関係あるんだろうか。でも解説札に猫の文字はない。
「大猫? これは神社に関するものらしいよ?」
「数井センパイ、合ってますよ。だから、根と同化した大猫がそこにいるんです」
「根と……同化した……?」
 ここに、そんな猫はいない。そもそも猫は一匹もいない。犬の散歩だって今日はダメと入口に書いてあった。たぶん盆栽を壊してしまうからだろう。いや、そんなことよりもふみちゃんの視線はずっと根の空洞から離れなかった。
 そのとき、少し強い秋風が吹いた。根の隙間に風が通り、みゃああああ、と鳴いたように聞こえた。ふみちゃんが猫がいると繰り返したせいもあると思うが、何となく本当に猫の鳴き声に聞こえたのだ。
「数井センパイ、大猫が目を覚ましました」
 えっ、それって何が起きてるんだろうか。目を覚ました? 猫が? もう完全に理解が追いつかない。以前にもふみちゃんが不思議なことを突然言い出すことがあった。もしかして何か特別なものが宿った木なんだろうか。文系の女の子に見えて、理系の僕に見えない何かがあるのか。あるとすれば探るしかない。
「……なあ、そこに……何がいるんだ?」
「猫です。猫なんです。でも、ちっとも動きません」
 そこから溢れ出す状況説明は雑だった。これは古くからある木で、根の下に牛くらいの大きな猫が丸々と座っていて、目を覚ましてこっちを見てる、と。猫の背中は根っことつながっていて、そこから動かない、と。――で、今また眠った、と。
 根とつながった猫を想像すると少し不気味だった。動物の背に木が生えるなんて、生きた状態ではあり得ないだろう。とは言え、牛くらいの猫なんて当然いないし、他のお客さんも普通に鑑賞していて平穏なままだ。大猫が一瞬だけ起きたのは、ふみちゃんが存在を感じたからなんだろうか、と考える。気づいてもらえて嬉しかったとか、そういうことなんだろうか。でも猫は動かず、また眠ってしまったという話で、僕は何と返事すればいいか迷った。
「猫は、いつからいるの?」
「大昔は……犬だったみたいです」
 なぜか犬になってしまった。猫じゃないのか。再びそこから溢れ出す状況説明は雑だった。昔、御堂に狛犬の頭が一つ祀られていて、当時の人々は狛犬のことを、中国を意味する唐(から)の猫と思っていたけれど、御堂がなくなりそばにあった大木の根だけが残っていたのを『おから猫』と呼んで信仰するようになったらしい、と。
 不思議な感覚だった。狛犬なんてどこの神社にもあるし、何でそれが猫と呼ばれたのかわからない。御堂がなくなったら自然に消えてしまうものだと思うんだけど、残った大木の根を祀ることに、何か言葉にできない時のつながりみたいなものを感じる。
 でも――そういう言い伝えを知らないとしても、今、目の前にある鳥かご状の根は、神様が寄りつくものだと言われたら素直に頷いてしまうほど、神聖な気持ちで感動する光景だった。これだけ地面から浮いていても木は生きていて、空洞に特別な力が眠っているような気分になる。
 気持ち良い秋風がまた吹いた。みゃああああ、と鳴いた。
 今度は、もっとはっきりと。時を超えて――
 いや……鳴いたのは違った。風でフードがめくれそうになったふみちゃんだった。子猫みたいに小さな頭の入ったフードを手で押さえてやると、ふみちゃんが「数井センパイ、これくらいの風、大丈夫です」と上目づかいに言われた。何となく、ついでにふわふわの猫耳も撫でておく。
 隣りにいる強がりの子猫は油断すると猫なで声を出すようだけど、最初に聞こえた木の根の音は、もしかしたら太古から樹とつながった大猫があくびをした声だったかもしれない。
「ふみちゃん、盆栽も面白いね」
 僕は何となく飽きが風に散った心地だった。
「はい、まだ日本の半分が残ってますよ。ゆっくり回りましょっ」
 ふみちゃんは僕の袖を引っ張り、北陸、近畿へと続いていくテントの回廊をめざして歩き出した。愛知はちょうど会場の真ん中あたりで、こんな大きな鉢植えが出ているのは驚いたけど、まるで時計の針の中心みたいに、存在感を放って堂々とそこにあった。

 盆栽市を巡り終わった後、僕たちは公園の木陰のベンチに座り、ふみちゃんがお母さんと一緒に作ってきたおから入り弁当というのを広げた。さっき、木を生やした「おから猫」なんて話を聞いたから、おからが一瞬おがくずみたいに見えてしまったけれど、ニンジンとゴボウを細かく刻んで混ぜてあって、優しい和風味でとても美味しかった。今日のこの野菜料理は――たまたまなんだろうな。
「ふみちゃん、ニンジンもゴボウも根菜だね」
 すると、ふみちゃんはきょとんとして僕の顔を見返した。
「ああ、ほんとだ、根っこですね!」
 根っこと猫も似た語感だから、口にしていると、さっきの古い伝承はふと昔の人の言葉遊びだったふうに感じてしまうから不思議だ。
 あと、ごはんが猫の顔に型抜きされていて可愛らしかった。のりたまふりかけで黄色くなっていて、ちゃんと招き猫っぽい手もある。あれ、これは右手だ。
「えっと……右手上げの招き猫は、眼鏡屋さんのとは違うんだっけ?」
「数井センパイ、合ってます。右は金運を招きます」
 よく気づきましたね、という満面の笑みを向けられると、逆にハズしてたら叱られたのかな、と苦笑いした。お弁当の招き猫くらいで来る金運なんて期待できないけれど、ふみちゃんもお母さんも、こんなところまで日本文化が大好きなんだな、と感じる。僕もまあ、ふみちゃんと一緒にいて知らないうちにそういう方面の知識が増えていくのも楽しい気がした。
 こうして、おからの日だか盆栽の日だか招き猫の日だかよくわからない一日が過ぎ、ふみちゃんの猫なで声を運良くそばで聞くことができたけれど、ふみちゃんと進展はない。これからふみちゃんがもっとお母さんに精進料理を教わって違うお弁当を作れるようになったら、また公園で一緒に食べることを約束しつつ、ふみちゃんに満腹の御礼を言いながら空っぽの弁当箱を返して、ふみちゃんの飲みたいジュースを買ってあげるだけだ。

(了)



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