241030 無題_3

 続きです。


 俺はその過程で友達として好きだったはずのスージーに対して徐々に女性として惹かれていくようになる。自分の中で好みとか好みじゃないとか全く関係ないままに気持ちが変な感じの動き方をして俺はスージーのことを想ってなにかをする時間が出来てしまっては後悔したりする。ユーアージアップルオブマイアイズ、みたいな英文――あなたのことは目に入れてもいたくない――があることを小説で知ったかと思えばその恋愛小説では好きな人でそういうこと、を考えるのを避けていたと主人公が自覚的になったりして俺は悲しくなる。違うのかな、どうなんだろうなって思っていても気持ちの部分は一度自覚的になるとどうにもこうにも上手く対応できないもので、俺はなんか悶々とする期間が増える。ただ彼女の髪の毛に対してふいに触る瞬間があって、それがきっかけで体が切なくなった時に俺のこれは病的だ、森岡夕衣とセックスをした時と同じそういう依存症の延長線だ! とへんてこな危機感を抱くことでその悲しい自己満足の期間を強制的に終わらせる。そして俺はその諸々をその時のスージーには一切言わずにただ着々と関係値だけが深まっていくようになる。そういう感情を抜きにしてもスージーは俺に知らないものをよく教えてくれた。彼女はころころ変わる表情の中に芯があって俺はそれを見ているだけで楽しくなっていく。次第に俺はそういう期間があったことを思い出すまで忘れるくらいにそういう時間を楽しめるようになる。昼食をよく屋上で食べるようになる。
「なんであんな奴らと関わるんだよ」
 折に触れて俺はそう聞いたことがある。スージーは小さな牛乳パックにつけていた口を離して
「だって、仲良くなれるかもしれないじゃん」
 と言う。俺はなんだかそれが妙に納得がいかなくて、頭は冷静なはずなのに反論というか意固地になったような言葉を続ける。
「でもスージーがどういう感じで思われてどういう扱いを知らないところでされてるかとかって、薄々知ってるでしょ」
 当たり前みたいにうん、知ってるって返すものだからどんなの? って言われる予定だった俺はちょっと困る。言葉は単純だった分すぐ返せた。
「じゃあなんで」
「でも、いつか仲良くなれるかもしれないじゃん」
 あっけらかんと言われるその感覚は今まで覚えたことのないもので俺は何故かドキ! として続ける言葉を見失う。スージーは続けた。
「私が黒人だから、とか。転校生だから、とか。そういうの抜きで仲良く出来る人が……今じゃなくてもいいよ、これから出来たら嬉しくない?」
 現にいるじゃん、と指を差された。俺は面白くなって嬉しくなってハハハハハハハ! って笑うとなんだよ~と言ってその指で腕をつつかれる。確かにそうなんだけど、それは俺にとって途方もないくらい遠い話だと思っていたからその粘り強さみたいなものに笑ってしまう。すげぇよ、って言いながら俺もパンをかじる。スージーは牛乳を飲み干した後にそれにさ、と言葉を続ける。
「そういう友達、学校じゃないけど他にもいるしね。もしよかったら……会ってみる?」
「え、いるの?」
「うん」
 会ってみたい、と考えるより先に言葉が出ていた。俺はなんか既にそういう存在がいることについてちょっとがっかりした……違う、変に悲しい気持ちになってそれを考えた自分が恥ずかしくなる。えーそっか、いるんだ。まぁこの考えの人間ならそういうものって関係ないんだろうなって思って俺は他人事ながらスゲー! みたいな感情でいた。スージーは購買のメロンパンを食べながら、じゃあ今度に予定合わせよっかと言ってくる。
 そんな頃にテレビやネットではコインロッカー・シニアの情報がまた加速する。名古屋での猟奇殺人を行っていたコインロッカー・シニアは大阪をまたいで突然兵庫にて殺人を行う。相手はまた賛否の飛ぶような存在でコインロッカー・シニアを取り巻く言論についてはそもそも触れないってくらいが正解になっていた。俺はそのころ岩明均の漫画を読んでいて場所を移動して次々に殺人を行うその存在についてを漫画と重ね合わせていたんたしそれはフィクションの延長線のような出来事だとどうしても思っていた。だからこそ俺の今の現状における環境を殺してくれ! とめちゃくちゃに思っていたし実際そう思う声は世界中のどこかで常に点在していたと思うんだけれど少なくともこの町においてそう考えているのは俺くらいらしかった。学校に行けばコインロッカー・シニアは怖いよねと言う女子や月刊ムーの何番煎じかもわからないような話でコインロッカー・シニアは人類の選別を行っている真の巨悪みたいな話を繰り返していて俺は違うしなんだかチープだくらいにしか思っていなかった。そういう周囲の変哲の無さみたいな情けない波に乗りたいとは全く思っていなかったしそれを裏付けるように俺の耳からは幻聴に近い声が鳴り出していくようになる。
 朝に部屋で目を覚ましてフーズドライのコーンスープを飲みながらテレビを見ているとやっぱり女性のアナウンサーが「コインロッカー・シニアの恐怖 怯える人々」みたいな内容を話していてまたこれか……と思っていると耳にゴリゴリゴリ! と音が鳴って低い唸り声が聞こえる。
【グゥルルルグゥ……】
 え、は? 耳を叩いてもなにか出てくる気配はないしそもそもそんなことをした覚えはない。おいおいこれじゃ本当に岩明均じゃねえか! って思っているとそのうめき声が人間の言葉を持って俺に話しかける。
【お前、コインロッカー・シニアを気にしているのか?】
 気にはなるけど別にどうなろうが対岸の火事だろ。
【本当に、そう思うか?】
え?
 ここで俺はこの耳の声が異常だってことにも気が付くしそれがコミュニケーションを取れる存在だってことでとてつもなく怖くなってくる。両親はもう出ているから声に出しても構わないけどストレスが聞かせている幻聴だろ……と思っていたけどコミュニケーションを想定していない形で取れる時点で重症なのかもしれない。
【コインロッカー・シニアは、やって来るさ。お前が望むかどうかに関わらず、必ずな】
 俺が望むか、望まないか?
【きっとだ、これはあくまで仮定の話だが】
 ……続けろよ。
【コインロッカー・シニアはここにやってきて、ここにいる人々を、めちゃくちゃに殺すだろうさ。それは今のお前が望むことだろう? 全てを破壊して、きっとお前が満足する通りになるさ】
 ……。
【きっとさ、きっと……すべてを壊してくれるさ。コインロッカー・シニアは】
 その場ではそれきり声は聞こえなくなる。ただ眠りにつく時とか夜誰もいない闇の中とかでその声は聞こえてきて、たいていコインロッカー・シニアについてのことを言うものだから俺は徐々にその気になってくる。
 どうせ数十年したらこの町も空っぽになって無くなるなら派手に花火を打ち上げて死んでくれたっていいじゃねえか。やってくれよ。今の不快な環境を全部全部変えてくれるくらいの。
 スージーには悪いけどさ、友達になれる可能性なんて、相手を優しさで甘やかしているようなものだよ、きっと。
 スージーや俺を避ける人々がいて父親が母親と一緒に俺を殴る、こんな環境を壊してくれるなら。
 壊してみろよ、コインロッカー・シニア。
 そんな風に思っていると太陽はあっという間に昇り降りを終えて代わりに月が照ってくる。予定していた時間はちょうど雲の隙間もなく半月が綺麗に見える時期で、土曜の深夜でも滅多に光の見えない山口県長門では特に明るく見える。
 制服の彼女としか会ったことのない俺は彼女の恰好に少々面食らうことになる。彼女はブラッディレッドと言うのだろうか派手目のパーカーに足の良く見えるショーパンを着ていて、俺の持っている普通の私服、よりも遥かに値の張りそうなものをしていた。結構いいものを着ている自信があったけど俺の世代だとそんなもんなのか? ほとんど同世代とコミュニケーションを取らない時間が裏目に出た気がしつつも俺はスージーに挨拶する。
「お疲れ、その……似合ってるね」
「でしょ? 周りが結構そういう格好してるからさ」
 そういう恰好? 話ができるかどうか少し不安になりつつもそのまま横並びで歩く。ほとんどの知っている道に少しの知らない裏道を歩くと徐々に知らない景色が増えていく。長い間こんな町に住んでいても知らない場所がまだあったりすることには少々驚いたけどそれは俺が持っている山口県長門への興味の無さの裏付けだったりするかもしれない。
 そのまま案内されてやって来たのはほとんど来たことのない寂れた路地だった。深夜な分いつも以上に外は暗いし町の電灯も消えてはつき消えて消えては……つきってくらいくたびれている。俺が物心ついた頃にはシャッターでいっぱいだった記憶だしその少し後にこのあたりには行っちゃダメ、みたいな教育をされた記憶がある。最近だと歩いた記憶が全くないその通りをスージーは勝手知ったるとばかりに歩いていく。
 着いたのは地下への階段がある小さな路地裏だった。こんな田舎でもあんまり見ないような汚いタイプのネズミが足元近くを走り抜けて小さな息が漏れる。スージーはそれを全く気にしていない様子で階段を降りていくから俺も慌てて後ろを追う。気で出来た小さな机と椅子にはガタイのいい男が一人いて不愛想に
「……いらっしゃい」
 とだけ言う。
「エーディブイの水瀬、二人です」
「はい、一人ニーイチ」
 事前に言われておいた通り釣銭を必要としない二一〇〇円。払うと小さなプラスチックの板を渡されて
「それドリンクチケットす」
 と最後までぶっきらぼうに伝えられる。
 会釈をするスージーに合わせて俺も会釈をして彼女に続くように厚いドアを開ける。端々が錆びた金属で出来たドアは想像以上に重く開けた瞬間。聞いたこともないような音量で耳に爆音が走ってきた。
『まだ夏終わってねぇよなぁ!?』
 ステージの男が場を上げようとマイク越しに叫んでいる。暑さの意味ではまだ夏だけどカレンダーはとっくに九月で高校ではもうすぐ文化祭の準備が始まる。的外れにも思えるその喋りを最前にいる男達が同じく叫び声や指笛で返している。
「スージー、これって」
「クラブ! あんまり来たことないでしょ、ここでもう結構友達出来たの」
「まぁ……来たことはないかな」
 笑いながら中央まで二人で歩く。みんなキャップやフード付きのパーカーを着ているしよく見るとそれぞれが海外ブランドだったり高いものだったり……ただそれぞれ使い古したり汚れがあったりして俺はなんとなく察せる。多分ここはそういう空間なんだ。スージーは小さな鞄の中から俺も知っている有名ブランドのキャップを取り出し自分の頭に被せる。
「お、スージー! よう!」
「おっすー!」
「おぉ、スー! 来てくれてマジでありがと!」
「いえいえ、せっかくゲスト取ってもらったんですから~!」
 何人かとそんな挨拶をしたスージーは、一通り握手を済ませると俺のところへ戻ってくる。ステージ上の男は一通り喋り終わると「ラストシット!」なんて言って歌とも朗読とも言えない何かを叫んでいた。
「これ、ジャンルって……ヒップホップ、とか?」
「そうそう、たまたま誘われてここに来たんだけど、楽しいイベント多くてね」
 来て欲しかったんだ、と言われた俺はその言葉を特に深読みもせずステージ上に目を向ける。さっきまで着ていた服を何故か脱いでいた男は客を巻き込んで大きな声で歌っている。
「これ終わったら、ゲストのDJだから、知ってる曲も流れるかも!」
 スージーの目は人一倍輝いている。まぁそんな都合よく流れるわけもないとは言えず、ありがとうと言ってるうちにライブは終わって、代わりにステージの奥へ別な男が現れる。暗くて広さもあいまいになるような空間だけどステージとその付近はよく照らされていて、俺は光につられる虫みたいだなんて思ったりする。
 俺の好きな音楽はヒップホップと言うよりも、パンクとかラップロックと呼ぶ方が近い。少なくともさっきまでやっていたライブの男が流していたタイプの曲はほとんど聞いたことがないし、定石通りならゲスト前にライブをする人なんてその日のジャンルの顔だろうから……なんて思っている予想を裏切るみたいにしてDJは手を動かし音を流し始める。
 コカインを胸ポケットに詰めて楽屋に敷く。
 あれ!?
固い紙で山なりのそれをトントントン。トントントン。切って並べて小さな糸にする。四本分引かれたそのラインに口づけするように鼻を近づけ、くしゃくしゃの紙幣をストローみたいにして一気に吸い込む。隣の仲間から鼻づまりの音が聞こえてむせるけど、二十分もすれば良くなってくる。幻覚剤をそこに詰めて、世界は明るさを増す。今はボルティモアにいるオリビアのことを考える。彼女が誰かに抱かれる夢が手を伸ばせば届くくらいに見えて俺はバッドトリップをする。死んだら体を千切って、無事な部分だけ愛してくれ。例え血が青くたって……。
 これ、そうじゃん。続きを歌う声が自然と漏れる。
「うぇなだーい!」「When I die~」
 隣にいたスージーも一緒に歌って俺はちょっとびっくりしていた。それは向こうも一緒だったみたいでサビが終わった後は
「え! この曲知ってるの!?」
 と言って嬉しそうにしている。
「アプリでオススメに流れてきてさ、そっからずーっと聞いてる」
「わかる! いいよね~! 死んでほしくなかった……」
 シュンとしながら言うスージーの言葉に少なからず俺は感動していた。この町で誰も聞いていないような曲がやっぱり誰かに届いていてそれは俺の見たことのないような人だけじゃなくて、来訪者のような形でいるとはいえ山口県長門にも届いていたんだ。俺はなんだか嬉しくなるけど、その曲も流し切らないうちに変わる。
「あれ、もう」
「DJって、そういうやり方なんだよね。同じか近いBP……テンポの曲を繋げていって、それで何十分も回すの」
 次の曲も知っていたらしいスージーはちょっと踊ってくる! と言って男だらけの前方へ走り出す。何人か知り合いがいたらしく握手&グータッチをしてそのまま一緒に踊る。
 あぁ、俺が知らない景色だ。それはもちろん当たり前なんだけど来て間もないスージーがもう既にこんな風に関係を作っているんだ。ミラーボールが彼らを照らしては影にして、キラキラとした赤色の光があちこちを等間隔に照らしては消えていく。俺はなんとなくそこへ向かうのを躊躇ってしまって購入したままのドリンクチケットでオレンジジュースを頼む。大きめのプラコップにホースで泡だったオレンジジュースと氷が注がれる。「はいオレンジジュース!」え、これで五百円!? 高っ! とはもちろん言えないしきっとここなりのマナーがあるんだろうから俺は普通にちびちびと飲む。スージーの紹介出来てるのに変に事を起こすつもりもないし、もし俺の家のことを知っている人がいたら大目玉だ。
 踊っている人々とそこを眩くする光を静かに眺めていると前にいた俺より大きな男が振り向いて声をかけてくる。
「あの子の紹介でここ来たの?」
 唐突に声をかけられて俺はあ、はいなんて気の抜けた返事をすると、その人はニコニコしながら俺に手を差し出してくる。手の甲にはなんかの漫画で見た紋章が入っていてうわこれ関わったらヤバいんじゃね? って考えるけど流れに乗せられるように手を握り返す。
「俺、ヨーイチ。隣のとこでで彫り師やってんの。あったでしょ? ネオンの看板」
 確かにあった。Tatoo Shopなんて看板は正直言ってめちゃくちゃ怪しかったし二個目のオーのネオンが切れていてTato Shopになっていたのとか色々思いつつはぁ、みたいなダルそうな感じで返事をしてしまう。彫り師の男は続ける。
「あの子……スージーね、卒業したらここで彫りたいって言っててさ、今時そんな子いないじゃん? だから可愛がってやりたくなってね」
 酒は奢んないよ、ソフドリソフドリと言って笑う男はニット帽で目の上まで隠して不気味な雰囲気を醸している。白目は真っ赤っかでこんな辺鄙な町のタトゥーショップなのに高い印象のある服はどれも新品みたいにパリッとしている。あんまり近寄らないほうが良いのかもしれないと思いつつも雑談に乗る。
「ここに長いこと住んでるんですけど、ここ来るの初めてで。全然知らない場所でした」
「あー……まぁ、ここでライブしたり回してる連中も外から来てる奴らばっかりだしね」
 数十人が踊るばかりで寂しいフロアだけどスージーが何人かの肩を組んで知らない曲を一緒に歌っている。ここにいる人達も別に山口県長門の人間ってわけじゃないらしいがそれはむしろ俺にとって好都合だった。
「彼女、学校で少し浮いてて……俺は話してて楽しいから一緒にいるんですけど」
「そっかそっか、いーじゃん、そういうの」
 ニコニコと笑う目元で白目の面積はどんどん減る。なるほどこれがそういう――いわゆる危ない商売をやっていても取り締まられない理由かなんて思っていると彫り師の男は続けざまに
「結局ここで流れてる音楽はヒップホップだからさ、はぐれた連中の集まりなんだよ。でもそこで仲間が出来て、外の連中と喧嘩したり一緒に遊んだりして、そういうのってさ――」
 ヒップホップじゃん? と言って笑うけど俺は愛想笑いでしか返せない。彼はその後もしきりにスージーとその辺の連中を指差しては
「あいつはいいよ、ライブがうまい」とか「あいつは色々オーガナイザーへのコネあってさ、人当たりがいいのよ」
 と紹介していくけど俺からするとスージーとその周辺でしかなくて記憶は上書きされるみたいに覚えては消えていく。
「付き合ってんの?」
「いや、そんなことは……」
「ふーん……」
 バーカウンターの男性にテキーラのショットグラスを頼みながら男は言った。
「大事にしたほうがいいよ、ああいうトモダチ? は、あんなにキャップとキックスが似合う子、そういないからさ」
 そこから先は閉店間際までほとんど話さないまま、踊っている連中を見て時間を過ごしていた。それを見ていた彫り師の男はどうやら俺が輪に入れず気まずいと思ったのか
「彫りたいと思ったら、広島とか福岡行かずにここでやりな。こんなとこでも東京から客が来たりするくらいの腕だし、割引もあるから」
 と言って笑う。俺は愛想笑いで
「いやー、俺結構お坊ちゃんで、なかなか……」
「あ、そうなんだ。ジモトノメイシ、みたいな家?」
「まぁ、そういう……」
「ま……大変だよね、そういうところは」
 と会話した後、男はずっとニコニコしていて俺はそれに笑い返す。
 うん?
 あれ?
「いやー、俺結構お坊ちゃんで、なかなか……」
「お坊ちゃん」
 自分で言ったその言葉遣いに自分が一番違和感を覚えていた。俺の家は確かにそういう家で俺はそこにいる一人息子と考えるとそれを表す言葉遣いは結局「お坊ちゃん」になるんだけど焦点を合わせたいのはそこじゃない。
 俺は体よく「お坊ちゃん」て言葉を使って本当はどうしたかったんだ? やんわりことわりたかった? それはそう。でもそれって俺がなんとなくで嫌悪している色々なものと一緒というか、なんというか……え?
 適当に吐いた軽口に自分の頭が躓いて俺は今後関わる可能性の低いその男に言い直したくなる。
「あの、えっと……」
『は~い、皆様名残惜しいですが、今日のイベントはここまでで~す!』
 さっきまでバーカウンターにいた男はいつの間にかそこから離れマイクを持ってアナウンスしていた。客や歌っていた人間も各々荷物を持ち出して帰り支度をする。それはスージーももちろんのこと彫り師の男も例外じゃない。重なるようになってしまった声は一応聞こえていたみたいで、彼は
「うん?」
 とこちらに顔を向ける。
「あ、いや……今日はありがとうございました」
 違うだろ。なんか……言い換える言葉も見つからないけど、違うだろ!
「うん、また暇だったら遊びおいでよ」
 男は最後までニコニコしていた。俺が正しい言葉を思いつこうとする前に背中を叩いたスージーが
「付き合ってくれてありがと、じゃあ出よっか!」
 と言って俺達は外に出ることになる。
 俺が自分の口に出した言葉になんとなく不信感と言うか本当にこれでいいのか? って考えている間にスージーはニコニコしながら楽しかったね~とかって言ってくるから俺も
「うん。やっぱ箱で聞くと曲って全然違うんだなって。それと、来てそんなに時間もないのにあんなに馴染んでて凄いよ」
 とか言ってごまかす。俺はスージーとなんとなく肩を並べて歩いているけど当然歩いた先に俺の家があるわけじゃないしなんか変だなとかって思いながらもそのまま歩く。自分の中にある感情に整理がつかないまま歩く道のりには朝日が照り始めていて暗かった街並みの凸凹に一つずつ長い影を落としていた。
「この後って時間ある?」
 俺の横顔を見ながらそう言ってくるスージーに俺は少しの逡巡で待たせる。時間はないわけじゃないけどなんとなくこういう出来事の連続ってそれぞれにワンクッション、ワンクッションあってのものじゃないか? とかって考えたけど同時にそんなことを考えていた俺自身に驚く。森岡夕衣とセックスをした時には通らなかったその考えのレールを通っている。少し眠気がチラつく早朝で薄くなる目をこすりながら俺は
「大丈夫、時間あるよ」
「じゃあ、ちょっと見せたいところがあるから来てヨ」
 スージーの足取りが少し早くなって俺はそれについていく。海辺の道を歩いて歩いて……というか俺がずっと住んでいた町でスージーがこんなに早く知らない場所を見つけていることにびっくりしていた。あの辺は治安があんまりよくないみたいな話をされたのが何年前だ? 遡れないくらい前の記憶に俺は縛り付けられている。
 スージーが足を止めた先にあったのはここに住む人々が「旧灯台」と呼んでいる場所で取り壊すにも金がいるという判断から壊されていないだけの廃屋だ。入り口をふさぐ鉄格子の近くには危険という立て看板だけがあるけど俺は……というか俺含め殆どの人達はここに入ったことがないと思う。だけど
「じゃぁさ、ほらっ」
 スージーはスニーカーを鉄格子にかけると腕でそこから上り扉の向こうに着地する。ほら、と言う頃にはもう俺を誘うようにして手を差し出していて俺はまたほんの少し迷った後
「大丈夫、行けると思う」
 と言って鉄格子を上る。同じ場所に着地すると
「ここね、上行けるんだよ」
 と言いながら灯台をグルグル周回するような階段に足を踏み出した。俺もそれについていく。見せたいところ。確かに何年も住んでいる山口県長門なのにも関わらず俺はここに入ったことがない。うっすらと言われた記憶のある危ない、みたいな言葉を信じてそのままにしていた俺だけど踏み入れるのは思ったより簡単で上がっていくのはもっと簡単だった。一番上に着く。灯台の上はガラス越しに埃の積もった部屋とそれを囲う形である足場があった。転落防止用に分厚い手すりがあるけど手を置いて空を眺めるには十分すぎるくらいの高さで、スージーはそこで俺に声をかける。
「綺麗でしょ、ここに来てすぐ見つけたの」
 手すりに背中を預けてはにかむ彼女の顔は色濃い影で細部まで読み取れないけど、朝日が照りつけて光り輝く水面と薄紫の空にスージーはとても似合っていた。
「綺麗」
 思わず口をついて出た言葉に後出しでハッとなるけどスージーはでしょでしょ~! と言いながら笑うばっかりで俺は安心と同時に安心したことへの情けなさが去来する。情けなさはそのまま言葉になってどうしても彼女の耳に届く。
「――ここって誰かと来たことはあるの?」
「うーんと……ないかな」
 初めて。
 そう言って照れくさそうにする彼女はやっぱりどうしても俺とは違う目線をしている。黒と黄色、女と男。そういった違いだけじゃなくてもっと大きなものな気がして俺は森岡夕衣とのセックスを思い出してひどい自己嫌悪を起こすがそれをかき消すように
「ありがとう、嬉しいよ」
 と言って笑った。
 そのままお開きになって内緒だからねと約束をした俺は彼女とした指切りげんまんの小指を見る。
 俺は自分がすごくすごくすごく情けない気がしていた。どうしてだろう。
 今まで自分がしてきたこととか過ごしてきた時間をひょいっと超えるみたいに笑って、動いて、踊ってをしている彼女はとても原始的だった。彫り師の……名前を忘れていたその男も彼女を見てスニーカーとキックスが似合う、とか言っていたし俺の知らない町にいた人と随分馴染んでいる様子だった。
 俺はどうすればいいのかずっとわからない。ただなんとなく今のままじゃ駄目な気だけがしてそれがすごく恥ずかしくてわーーーっ! と声にならない声を出す。
【そのままでいいだろうが】
 うるさい、黙れ。
【全部壊れるんだから】
 お前、最初は随分のんきだったのに今はかなり調子乗りだな。
【次は岡山だ。きっと、な】
 え、岡山? おい、ちょっと! なんか俺の中で、今違う気がしてきてるんだからさ!
 俺の思考もむなしいものでその低い声はまた聞こえなくなる。自分の頭に聞こえる声と勝手に喧嘩し出す俺はさぞかしおかしくて、周りの人がそれを知ったらどう思うかは想像に難くない。だけど俺が求めているのはそういう狂い方じゃなくて、なんだろう。もっと。
 自分の中に自分がちゃんといないような、いるような……。
 帰り道が終わって俺の家の表札が目に入る頃に俺は今までの自分から何かを変えたいと思うようになる。それはスージーのお陰だし今まで関わって来た名前も知らない人の影響で俺はうっすらとしたその気持ちを緩いながらも決意的に意識する。
 だけどそんな俺の気持ちをへし折るようにして父親は俺のことを殴る。暴力が部屋にこだまして俺はうめき声みたいな汚い音を口から出す。
「ぐぅ、うぇっ!」
「聞いたぞ。地主からの電話でな。黒人の女となにかしているらしいな」
 地主、そう来たか。俺の声はあの中にひょいっと俺を売るような人がいなかったことへの安心で軽い返事になる。
「……だから?」
 下に見るような目つきを向けると父親は敏感だ。吹っ切れたように殴って蹴ってを繰り返す。俺はそれを受け止める。母親はいなくなっていた。
 これまで暴力を受け止める時に半分こしていた母親はしばらくの間実家に帰るらしい。実家には行ったことがないからどんな家なのか俺はほとんど知らないけど電車をいくつか乗り継いでの福岡にあるということだけは知っている。暴力に耐えかねたのかそもそもの予定だったのかもコミュニケーションを取れていない俺が知る由もなかった。
「あぁいう! 人種と! 関わってると!」
 蹴る、蹴る、殴る。順々に暴力がやってきて俺はとても辛い。痛いししんどい。
「お前は! 自分がどういう家の人間なのか! 理解しろ!」
 俺がカウンターで殴ろうとしたところをしっかりと止められて膝がみぞおちに入る。あぁぁぁぁぁ! ごめんスージー! いや君に謝ることでもないんだけど、俺やっぱり辛いかもしれない! ここで俺は母親が今まで請け負っていた痛みの重さを知る。今は一個分だとしたら今までは二分の一で済んでいたのだとわかる。あぁ、痛い。なんでこんな時に逃げるんだよって思うけどそもそも俺も母親も逃げてたのか? 暴力を振るうことで俺達が感じている痛みとかしんどさとか辛さとかそういった諸々から、逃げてたんじゃないのか? そうすると俺は恥ずかしくなってくるけどそれをうまくアウトプットする瞬間が見つからなくて父親に半笑いで口答えする。
「知らねーよ、暴力以外で説得力持てないのによく政治かやれるな、あぁ?」
 父親の眉間のしわが深くなって一旦止んでいた暴力が再開される。俺は殴られるたび痛い! とかなんで? みたいなノイズに邪魔されながらも考えを必死でまとめようとする。
【お前はそれでいいんじゃないか? 大丈夫、すべてひっくり返る時が来るさ】
 本当かな? あとそれが本当だったとして、俺自身が変わらないまま生きてて本当にそれでいいのかな?
 俺はもしかしてずっと逃げていたのか? どこかで嫌いな父親だったとしても俺はそれに対応するための手段を持てたんじゃないのか? それは暴力をし返すことかもしれないし言葉で話し合える舞台でもいいかもしれないし政治家生命を脅かすタイプの脅しかもしれない。けど俺はそれをせずなんとなくで生きてきて多少良かった顔と地元での支援の厚さを使って適当に生きて森岡夕衣とセックスしては自暴自棄になってただけなんじゃないか?
 恥ずかしさは加速して俺はどうすればいいのかわからなくなる。わからないよ俺。どうすればいい? 俺変わりたいけど変わる方法を持ってないよ。
【ならそれでいいじゃないか】
 そうかな? 違う気がする。
 俺の家はその多くが木で出来ていて柱とかふすまとかにちょこちょこ血が飛んでいたりすることがあった。それは俺にとって今までは度重なる暴力の証拠でしかなくて物体としての意味以上のものを持っていなかった。だけどそれがもし俺が逃げてきたものの延長線にあったら? いつからこうなった? わからないまま暴力は十数分ほど続いて息も絶え絶えになったところで父親は自室に帰る。言葉は少なかったけどそれがスージーやそれを取り巻く環境についてのことだっていうのはよくわかる。
 だけど俺は今までの認識を少しずつ変えたくなる。
 俺は今までどれくらい半端だったんだ? 半端に誰かを嫌って半端に誰かを傷つけて半端になったまま生き続けてきた。俺はひょっとするとスージーに出会ったことで今まで持っていた先入観とか無意識とかそういうのについて深く考える時間を作るべきなんじゃないか? と思うようになる。
 その日は学校を遅れていってスージーには心配されたけど彼女の父親の事情を考えると話がいっている可能性は十分にあって俺はなんだかそれがすごく悲しくてこらえそうになっていた涙をトイレで流す。嗚咽をしているところで大森蓮たちに絡まれたりするけど俺はどうしていいかわからずその言葉の暴力を素直に受け取って彼らは苛立ちのままに痛がっているところに傷をつける。
 スージー。俺は君を責めたいわけじゃない。ただ君に教えてもらった世界の広さを知らないまま、なんとなく他人と違うと思って生きていた自分がひょっとすると、って考えると、俺は今の自分をめちゃくちゃにしたいと思うんだよ。
 かといって俺が変われるまでには時間がかかるしその間に文化祭なんてものがあればまだ面倒臭く感じてしまうのも自然だと思う。俺はなんとなくの連続で今やっている段ボール切りをさっさとやめてしまいたいと考えているけどもちろんそれじゃ終われない。森岡夕衣は頬にインクをつけながらよく関わる女子と一緒に切った段ボールに色を付けていたしそれを組み立てているのも大森蓮を主導にした男子たちだった。あぶれるような形で単純作業の連続をこなしながらぼっとして作業を進めていると、扉が開く。
「ただいま持って来ました!」
「うっす……」「うん……」「じゃあスージーちゃんは、あっちと一緒に段ボール切っといてくれん?」
 森岡夕衣が指揮を取りあっち――俺を指差す。段ボールを持ってきた彼女への感謝の言葉はほとんどないけどスージーはそれを気に留める様子もなく俺の隣に座ると余っていたハサミを手に持つ。
「しんちょく、どう?」
「いや、まぁまぁ……あ、お疲れ様。重かったでしょ段ボール」
「ありがとう、でもヘーキヘーキ!」
 彼女は笑う。俺が心配していいものかどうか悩むくらい快活な彼女だけどスージーには居場所がある。それは俺も見せてもらったし俺は彼女に興味が無い連中が見ていない景色を見たことが嬉しいからまぁ、大丈夫かってくらいにして、だべりながら作業を続ける。
「ここの文化祭って、どういう人が来るんだろうね。OBとか、車で来たりするのかな?」
「まぁ、まずは親じゃない? それと来年の新入生。OBは……」
 この辺の会社は大概休めないし、休みを取れるような会社で働いてないから多分いないよ、と言いかけて辞めた。それは少し残酷な気がしたし表だって言うこともない気がした。俺は話を変える。
「あのさ、スージー」
「うん?」
「スージーは、この高校出たらどうするかとかって決めてる?」
「う~ん……」
 悩むような顔をしながら手を動かして三十秒で彼女はぱっと明るく答える、
「決めてない! けど、ここに残るのかなぁとか、どこか行くのかなぁとか、色々考えてる」
「そっか……」
 しばらく静寂が続く。俺は正直自分でも理由が分かっていないけど彼女をなんとなく俺の進路に誘いたい気持ちがあった。だけど俺はあの日以降自分がすごい恥ずかしい人間なんじゃねえの? みたいな気持ちがずっと頭を過っていてそのせいで言う機会をとんと失ってしまっていた。ただ彼女がこの町にいる光景よりも彼女はもっと広い場所の方が似合っている気がしてただそれも俺の独りよがりで……みたいなことを考えているうちに時間はどんどん過ぎていく。授業が終わった後にやる半強制の準備は外の景色を徐々に薄暗くしていて気づけば外は真っ暗になっていた。
 そしてそんな風に考えている時に限って、それは変化を迫って来る。
 バチン! 鞭で叩いたような音がして電気が一斉に消える。
「は?」「え?」
 戸惑いを隠せない声が上がる教室に校内放送が聞こえてくる。
『皆さん。校内に不審者が現れたとの情報が入ってきました。皆さんは教室から動かず、先生が来るまで待機してください』
「え!?」「ちょ、まって!」「もしかして、コインロッカー・……」
 パニック的になった教室の中で声が聞こえる。それは俺にだけ聞こえる獣のように低い声でそれはベースみたいに心を揺さぶってくる。
【よう】
 ……なんだよ。
「ねぇ、大丈夫かな?」
「スージー大丈夫。この手のは、多分一緒に通報もされるようになってるから」
「ううん、そうじゃなくて……」
【お前が待ち望んでいたであろう未来が、やって来るぞ。全部を壊しに】
 ちょっと待て、それって。
 校内って言った。多分校門を通り過ぎたところでカメラに映ったんだろう。俺は窓から目までを出して様子を伺う。
「――!」
【殺すぞ、全部。うなりをあげてな】

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