241102 無題_6(終)
続きです。
スージー。君は気付いているか知らないけど、俺は君に出会って救われたんだよ。この小さな町に生きていくことを宿命みたいにされて、自分じゃどうしようもないことでたくさん恨まれて疎まれてってやけになってそれが更にそう言うのを加速させて、結果的に居場所がなくなって。逃げたくなったり責めたくなったりしてめちゃくちゃになっていた俺の世界を君が変えてくれた。
君は俺よりずっと不自由な可能性を持っていてそれは世界中で今同時多発的に起こっている狭さとリンクしていると思うのに、それでも生きていた。君が本当に今の世界が好きなのか嫌いなのかもわからないけど、君がいる場所は俺の目にはパッと明るくなって、海の向こうにある空は本当に遠くて広く見えたんだよ。
少なくとも、俺はそうなんだ。
俺は君が好きで特別なんだって今なら言える。
スージー。
君がこれからどこへ行きたいかも知らないけど、この場所より狭さを感じないところへ行くとしたら、俺もそこへ一緒に飛びたい。
逆に君がこの場所でもっとなにか時間とかそういうものを深めていきたいんだとしたら、俺もその階段を一緒に歩きたい。
その為なら俺の希望なんてどうだっていい。一本線のあみだくじみたいだった俺の世界を君が広げてくれたんだから、俺はその線を君に繋げたい。
俺が歩きながら考えていると気づけばその場所に着いていた。ネオンライトに照らされた知っている店へドアを開ける。考える過程を飛ばしてやって来た俺にその人は驚くような顔をして見せた。丸椅子にあった腰を上げて受付まで歩いてくる。
「君、たしかスージーの……」
「お願いがあります」
ポケットの財布にはいくらかの金が残っていた。その鐘をそのままトレーに置いて俺は頭を下げる。
「俺に……彫ってくれませんか」
あの時クラブで話し彫り師の男は、その声に驚くような顔をしていた。
「……とは言っても、君あの時言ってたじゃないか。俺はお坊ちゃんだから、って、笑いながら……」
続く言葉を探すような黙り方は俺達二人の間に静寂を産む。
灰色で薄暗い部屋の寂しさを埋めていくように重ねて貼られた色んなブランドのステッカー。締め切っていない水道から等間隔で響く雫の滴り。暗くなったり明るく鳴ったりを繰り返し小さな蝉みたいに音を立てる電灯。
この人がこの世界に足りてないと感じているものを詰め込んだような部屋。汚れているけど妙に澄んだ空気の中心には、一つの埃も見えないリクライニングチェアと丸椅子がある。
「俺、そういうことを言って自分の選択肢減らすの、やめることにしたんです。いれたら良いこともある。悪いこともある。戻ることは、基本難しいってのも、わかってます。でも……」
「……」
「俺、そうなりたいんです。だって……」
頭を下げる。
「スージーの隣にいたいんです」
薄い目線から微かに覗ける白目は充血で赤みがかっている。彼はシンクに手をつくと深いため息を一度吐いた。
「スージーねぇ……あの子なんて言うと思う? 君がそういうのを入れたら」
「……笑ってくれるんじゃないですか、きっと。ばかだな、って。ころころと」
「……君がこの間の事件に巻き込まれたのは知っていたけど……人が変わったみたいだよ。キャップとキックスが似合う気がする」
呆れたようにして笑った彫り師の男は、部屋の入口にある棚から薄い本を取り出す。ぱらぱらと捲りながら概要を少しずつ話してくれた。外傷が多い今の俺の体だと感染症や炎症の可能性があるからとりあえずは見積もりとデザインだけ、やるのは傷が治ってから。基本的な話をしながら自分のニット帽を指でさすっている彼の腕からは、刻まれた星条旗が見え隠れしていた。捲っていた本には沢山のデザインやその金額、サイズ感が書かれている。
「サイズと種類は、どうする?」
「……確認します」
「うん」
本に書かれた模様やマークを眺めながら俺はこの場所について考える。
海の反対側を向くと山があってそれを数個飛び越えたところには特急電車の通っている大きな駅がある。そこには父親が建てて色々な企業を誘致して作られた商業ビルがあって、その影響で寂れた商店がある。ぽつぽつと立ち並んでいる一軒家の人間はほとんど全員そこからそのビルへ行き外出の用事を済ませる。それよりももっと寂れているこの町には数件のコンビニがあるくらいで、どこにも大した客はいない。町の人間はほとんどが車移動で外出を済ませるからどこにいても排気ガスの臭いがして嫌になる。けど。
そんな臭いを消してしまうくらいに塩の匂いがする。スージーと一緒にいた時ずっと鼻腔をくすぐっていて嗅ごうとすると塩気がきつい、そんな匂い。太陽に焦がされた塩水が気化して通り抜ける、山口県長門の匂い。
そんなことを考えながら五分くらい選んでいると、彫り師の男はおもむろに話し出す。
「ちょっとした話なんだけどさ、昔解放奴隷たちだけで作った国があって、そこの海がすごい綺麗だったらしいの。ちょうと、ここの海みたいな」
「らしい……なにか、あったんですか?」
「内戦で、全部めちゃくちゃになった。人が人を恨んで、殺し合って、海どころか国中が汚れ切って、今はほとんど誰も知らないような小さな国。俺がいったのもその時でね……あぁ、これこれ」
本の終盤にあったその国旗。丸みを帯びた輪郭の中にヤシの木と船と太陽があしらわれたマークを空と海の青色でまとめ上げている。リベリア国旗と書かれた主題の下には小さく
「ハーパー……オブ、リベリア?」
「まぁ、気にしないでいいんだけどね。ここの海みたいな場所だった頃に行ってみたいな、って。君が見てるページであっ、って思い出して」
「……俺、これにしたいです」
「……そっか。じゃあ、見積もり出しとくね」
「よろしくお願いします。えっと……」
「ヨーイチさん、でいいよ。忘れてたでしょ? はは、わかるよ」
よろしくお願いします、と言ってその見積もりを待つ。
海を胸に、懐かしい笑み。見届けてこのこうべを上に。
いつかに聞いたような歌詞が頭をよぎって、そのまま消えていく。
きっと彫る時は痛くて、最初はテンションが上がるけどすぐにしぼんで、後悔するときもあるんだろう。それでもその時の肌を焼く音や痛みには、何かを変え何かが変わって、何かが始まるような気がしていた。
そして話は今へ近づいてくる。長い時間が過ぎて俺達は勉強を増やす季節になりあの事件の話も聞かなくなる。
スージーはあのグロテスクさを見たにも関わらずほとんどけろっとしている様子で色々な人と接していたけどその無傷に見える外側の中が俺は不安で、やっぱりそれ以前と一緒で彼女とよくいるようになっていた。せっかくなら大学に行った方がいい、と色々な人に言われた影響を彼女はちゃんと受けていて俺と一緒に勉強を始めるようになってからしばらく経って元々覚えていなかったことをどんどん覚えるようになっていた。図書館には俺達と司書さん以外誰もいなくて少し難しめの問題に頭を悩ませている彼女に「休憩取ろうよ」と言って外に出る。空き教室の窓を開けて無人になっている机の上に座りながら俺はなんとなく言えていなかったことを言う機会をずっと伺っていた。
「……あのさ、スージー」
「うん?」
窓の外で聞こえる部活に目をやっていた彼女の顔がこっちに向いて俺は喉が少し乾く。
「見せたいものがあって、さ」
つっかえつっかえになる言葉が俺を焦らせる。半袖の襟をめくってそれを見せる。腕の付け根にはあの時頼んだタトゥーがそのまま入っていて彼女はびっくりしたような顔を見せる。
「それ……」
「スージーさ、進路の大学についてって何か考えてる?」
「う、うーん……文系で、入れそうな所で、って感じで、場所は決めてないかな」
「俺と同じ大学来てよ」
「え?」
スージーの目が少し見開かれる。大学に行くことを決めたのもちょっと前だし志望校選びは夏に進路相談室でする予定だったらしいから驚くのはわかっていたけど俺はどうしても言いたかった。彫った痕特有の赤みが消えて青が随分綺麗に映るようになって、彼女に見せるのにも問題ないくらいに整って。
どうしても最初に見せたかった。
スージーは少し困ったような顔をする。
「……そっちのお父さんは、一緒にいるのよくないって、思ってたんじゃないの……? だから、だから私」
「解決した」
「……え?」
「俺、誰にだってこんなことする人間じゃねえもん。一緒にいたくて、好きで、だから二人で勉強してたの。スージー、俺と一緒に東京に行こうよ」
「……私、いいの?」
「俺はそのつもりでずっといたけど、気づかなかったみたいだから。それに……これも綺麗になったし」
青いそれを見せながら笑うとスージーはこっちに少しずつ近寄って来る。腕は俺の肩に回り背中で繋がると強く抱きしめられて彼女の温度を体に感じる。
「行く……! 私も一緒に、東京……!」
「……これで俺も『お坊ちゃん』じゃ……ないから」
不思議そうな顔をするスージーに、俺は話す、クラブに行った時に言った「お坊ちゃん」って言葉を捨ててスージーと一緒にいたいからやったこと。言いたいことは沢山あったけど発色が綺麗になるまで我慢していたこと。後悔しないつもりでやったけど押しつけが強くて嫌われないか、少し不安だったこと。
彼女の体温を感じながら全部言い切ると、頭の乗っていた肩に熱いものが落ちる音がする。
「なにそれ……ほんと、ほんと、ばかみたい……」
あぁ、やっぱり笑ってくれた。
「あのさ、スージー」
「……うん」
「俺、話したいんだよ。これからのこと、色々」
「……うん、うん……!」
彼女の体は太陽みたいに暑かった。それは彼女がどんな人種でとかどんな存在でとかをすっ飛ばして彼女が水瀬ステイシーだからだと俺はもう知っている。青い肩が少し湿る。
やらなきゃいけないことが沢山あって俺はこれからのことを考えると大変だなぁ、とか思うけど、そこには今に続く道がある。
そしてその道は随分と長い時間をかけて、あの新幹線に繋がっている。
何回目のトンネルかもわからないような新幹線の中で車窓の景色を糧にして話し続けていたスージーは長いトンネルをきっかけに目を閉じてそのまま寝息を立てている。山口県長門じゃ打っていないような薄桃色のスウェットとこの日に着ると逆算していたらしいジーパン。冬休みになって妙なところで気合いを入れたスージーとパソコンへ長時間向かい合って選んだもの。アドレナリンで元気そうにしていた彼女もやっぱり緊張していたらしくて起きる気配はないから俺は肩の重みをそらさないように気をつけつつ本を取り出す。
車内販売が来る気配もないし人気もほとんどない新幹線の中では俺も気を抜いたら眠ってしまいそうなほどだったけど一緒に寝たら不安だな……みたいなところで踏みとどまる。
コインロッカー・シニアの事件からどれだけ経ったか思い出せないくらいの時間が経っていた。それは変わりかけていた俺を否応なしに変化させて町を呑み込んだ歪みから回復させるには十分な時間で山口県長門には確かに人がいたけど過去のままというわけでもなかった。
進学すら迷っていたスージーを俺が口説き落とす形で大学に行くことを決意してくれた。どこにいくかも決まっていなかったから一緒に選んでできれば同じ大学、それも同じキャンパスがいいと相談して選んだのが東京の大学だった。人生であんまり勉強をしていなかった彼女に教えながら自分も勉強をしてとりあえずお互いが受かりそうな程度の学部に確実に受かるための量をこなす。もちろんそれだけじゃなくて殴り合いをした父親には頭を下げて推薦のルートを消してもらうように頼み込んで数発殴られたりもしたし短期のバイトも並行していた。音楽を聞く時間はもっぱらながらになっていて炎症が消えたことを確認してからはクラブやタトゥーショップに顔を出す機会も減った。桜を見る季節までは眠れないこともあったし嫌なこともあったけど、俺はここにいる。
二人で合格して希望通りのキャンパスへの通学が決まってからは電話とネットを使って色々な手はずを整えた。
この世界は俺達二人で掴んだ未来だと、はっきり言える。
そんな記憶から引きずり出すように彼女の寝言が聞こえる。
「重いよ、荷物…… お米…… 」
「…… なんの夢見てんだか」
食品や家具は当然郵送して極力荷物は少なくするようにしたが、それでもまだまだ多い。当面の着替えや、事前に購入するよう言われた教材の書籍。それから家から持ってきた本に、通帳――
【お前には】
久しぶりじゃん。
待ち構えてもなかった声に一瞬体が強張ったけどそれに少し強がりながら返事を出す。耳を塞いだって意味のない声はイラついているように感じた。
【お前はもうわかっているはずだ。俺が誰で、どうなっているかを】
……まぁわかってるよ。
声は返ってくる。
【所詮お前にはこの血が流れている。それはお前が変わろうとする中で、どうしようもなく確かになる時がきっとくる。人を傷つけないようにあるくお前の道にも、きっと踏みしめてしまうものがある。必ず、そうなる】
それもまぁ……わかってるよ。でも、そうなったとして、祈るしかないだろ。
【自分が誰かを傷つけないように、踏みにじらないように、か。それは祈りじゃない、呪いだ】
違う、違うよ。
【じゃあ、何を】
隣で眠る、俺より小さくて元気で、この国ではあんまり見ない人種で、俺の知らないところが沢山ある、愛しいスージーを見ながら、俺は答える。
「傷つけるかもしれない、踏みにじるかもしれない人達を皆好きになれるように、って」
【……】
荒い鼻息が聞こえる。俺は窓の外に映っては去っていく街並みをずっと見続ける。すぅすぅという声が聞こえては小さくなるを繰り返していくうちに、ずっと聞こえていた声は聞こえなくなる。
気づいていたよ。お前の声はきっと人間みんな持っているそういう感情なんだって、俺も気づいた。きっと人には多からず少なからずそういうのが聞こえていてそれはまるで漫画とかで見る天使と悪魔みたいに理性的な人の部分を揺らして歪ませてまたどこかで誰かが泣くことになるんだろう。
俺はそれも受け入れる。嫌な奴も好きな奴もいるけどきっとうまくいくって信じることでしかどうにかならないし、どんな人間にだってきっと好きになれる場所があるって思わなきゃいつか人そのものを怖がってしまうようになる。嫌な記憶の方が人間はずっとよく残るしだから大変だと思うけど俺はそうしていくって決めたから、そうする。
だからもう、大丈夫だよ。
【】
うん。
その声と入れ違いになるみたいにして無機質な車内アナウンスが駅名を告げる。小説やドラマで聞いたことのあるような駅名が徐々に近づいてくる。
スージー。水瀬ステイシー。スージー。
君は俺の言葉を信じて俺と一緒に歩いてくれているけど、俺はまだ自分のことをそんなに大層な人間だと思えない。掛け違い次第で俺は君を傷つけていたし、きっと君を見殺しにする未来もあったと思う。プールにパーツを入れて腕時計ができるような偶然の連続が俺を今この場所に連れてきている。引き寄せようと思った時に引き寄せられる偶然含めて奇跡みたいなものだと今だって信じてやまない。
だからさ、スージー。
俺が誰かを傷つけたら、父親みたいに殴ったっていい。引っ掻いたり、噛みついたりして欲しい。多分そんなことは世界中のどこでだってあるしそれは俺も例外じゃないからこれから生きていくうえでそんな瞬間もあると思うんだ。わがままを言って申し訳ないんだけどその時は俺に教えて欲しい。
俺は君がいれば変われる。俺は世界って言う広い場所の中でこうやっていればきっと変われる。そこに君がいてもいなくても導いてくれたみたいに明るい君がいたことが俺を変え続けてくれるって願っている。そして俺がいることで君の世界も変わり続けることができるって願っている。
開いていた端末を消す。家から持ってきた本を開く。古ぼけた詩集や変な名前の小説があって俺はそれを順繰りに開いていく。本からは乾燥して埃を帯びた紙の匂いがするけどその中に海の塩っぽい匂いもする気がしている。あの町がいつか終わるとしても俺の記憶の中にはある確信めいた予感がする。
『この海の 蒼きふちより 船来るを ひとつの兆しと うけて旅ゆく』
何回目かのトンネルに入っていた新幹線が抜けて車窓から見える町の景色は一気に高く鳴る。濁り切った海はもう見えないし、綺麗な海なんてものもとっくに過ぎ去った。俺達がいた山口県長門とは比べ物にならないくらい広い町を見て体が少し組むけど、どこにいたってその場所は、きっと俺達のゆりかごになる。