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「風に揺れる時間」story10
田中は、斉藤とのやり取りを引きずりながらも、日々の業務に集中しようと努めていた。彼の心には、再び仕事に対する情熱が戻ってきていたが、その一方で斉藤との関係が複雑な感情を引き起こしていた。これまでの人生で、彼は自分の感情に深く向き合うことを避け、仕事に没頭することでそれを隠してきた。しかし、今回は逃げられない状況に直面していた。
数日後、斉藤と一緒にプレゼンテーションを準備していた際、再び緊張が高まった。斉藤はこれまで通り、プロフェッショナルな態度を崩さずに仕事を進めていたが、彼女との会話の端々に以前の告白の余韻が残っていることが分かった。田中もまた、彼女と一緒にいることで心の奥に隠していた感情が再び湧き上がるのを感じていた。
「これで、明日のプレゼンはほぼ準備完了ですね。」斉藤が資料をまとめながら言った。
「そうだな、いい感じに仕上がっていると思う。」田中は努めて冷静に答えたが、その視線は彼女の手元に釘付けだった。
斉藤は微笑みを浮かべながら、「一緒にここまでやってこれて本当によかったです。田中さんがいてくれて、本当に心強いです」と言った。その言葉に、田中の胸は再びざわついた。彼女の真っ直ぐな言葉が、彼の心を揺さぶる。
その夜、田中は家に帰ってから、リビングのソファに腰を下ろした。妻がいつも通り家事をしている音が遠くに聞こえていたが、彼はその音がかすかに感じられるだけだった。目の前に置かれた書類をぼんやりと見つめながら、心の中では斉藤との関係についての葛藤が渦巻いていた。
彼はふと、妻とのこれまでの人生を思い返した。長年支えてくれた妻との生活は、安定したものであり、感謝すべきものだった。だが、その一方で、斉藤との出会いが彼に新しい刺激をもたらしていることも事実だった。斉藤といるとき、田中は再び自分が生き生きとしているように感じた。それは、リストラ後に失われた情熱が再び目覚めたような感覚だった。
「これからどうするべきだろうか……」田中は自問した。斉藤との関係を進めることは、家庭を裏切ることになる。しかし、この新しい感情を否定することは、自分自身に嘘をつくことにもなるように思えた。
その時、妻がキッチンから顔を出して、穏やかな声で言った。「田中さん、今日は仕事どうだったの?」
田中は一瞬、答えに詰まりながらも、「順調だったよ」と短く返した。だが、その声には迷いがあったことに、自分自身でも気づいていた。妻はその微妙な変化に気づいたのかもしれないが、特に追及はせず、静かにキッチンに戻った。
翌日、田中はオフィスに向かい、例のプレゼンテーションの準備を進めた。斉藤と一緒に客先に出向き、緊張感のある商談が始まった。プレゼン自体は順調に進み、斉藤も田中もスムーズに役割をこなし、客先の反応も上々だった。商談が終わった後、二人は安堵の表情を浮かべ、ビルの外で一息ついた。
「やりましたね、田中さん。」斉藤は笑顔で田中に言った。その笑顔は、彼にとって安心感を与えるものでありながら、同時に複雑な感情を呼び起こした。
「そうだな、うまくいった。」田中はそう答えたが、その心には依然として葛藤が残っていた。
その後、二人は少しだけ話をしながら駅に向かって歩いた。会話は仕事の話題が中心だったが、どこか気まずさが漂っていた。斉藤も、田中もお互いの心の中にあるものを知っているが、それを口に出すことはできなかった。
駅に着くと、斉藤が立ち止まり、ふと田中の顔を見上げた。「田中さん、また一緒に仕事ができるといいですね。」
その言葉に田中は、短く「そうだな」とだけ答えた。そして、心の中で決断するべき時が近づいていることを感じていた。彼は、斉藤との関係をどうすべきか、自分の人生をどう進めるべきかを、真剣に考える必要があった。
その夜、田中は再び家に戻り、静かなリビングで考え込んでいた。斉藤との未来を考えることもあれば、妻との長年の生活を思い出すこともあった。どちらの道を選ぶにしても、大きな決断が必要だった。
「俺は何を選ぶべきなんだろう……」田中は自分に問いかけた。
そして、彼は明日、斉藤に会った時に話すべきことがあると感じた。今の関係を続けることはできない。それをどのように伝え、どう関係を整理するのか、彼は心の中で準備を進めていた。