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「風に揺れる時間」story4

翌週、田中は鈴木の紹介で、小さなオフィスを訪れた。そこは、都心の古いビルの一角にあるベンチャー企業だった。エレベーターを降りると、オフィスのドアは開け放たれていて、中からは若者たちがせわしなく動く姿が見えた。田中が足を踏み入れると、鈴木が笑顔で迎えてくれた。

「おお、田中!来てくれてありがとな。こっちに来い、紹介するよ。」

鈴木は田中を奥の会議室へ案内し、そこで若手のリーダーである佐々木という男に引き合わせた。佐々木は30代前半の快活な男で、エネルギーに満ちた目をしていた。彼は握手を交わしながら、簡単な挨拶を済ませ、田中にプロジェクトの概要を説明し始めた。

「今やっているのは、地方の中小企業を支援するための新しいプラットフォームを構築することなんです。田中さんには、その中で特にプロジェクト管理や企業との調整役をお願いしたいんです。これまでの経験が必ず活きると思っています。」

田中はその説明を静かに聞きながら、自分がこの若いチームに本当に貢献できるのか、まだ少し不安を感じていた。しかし、佐々木の熱意と鈴木の信頼に背中を押される形で、彼はその提案を受け入れることにした。

「分かりました。やってみましょう」と田中は静かに答えた。

その日から、田中の生活は再び忙しさを取り戻した。新しい仕事は、これまでの大企業での管理職とは異なり、スピード感があり、柔軟性が求められた。田中は最初こそ戸惑いを覚えたものの、少しずつチームに馴染み、彼の経験を活かしてプロジェクトを形にしていく手応えを感じ始めた。

日々の業務は変化に富んでいた。地方の企業とのミーティング、社内での意思疎通、新しいシステムの構築に向けた調整――田中はこれまで慣れ親しんだ業務とはまったく違う環境に身を置くことで、かつての自己を少しずつ取り戻していくような感覚を得ていた。

オフィスの一角にある小さなコーヒーマシンの前で、ふと田中は、以前の会社での光景を思い出した。あの時も同じように、日々の業務に追われ、コーヒーを片手にホッと一息つく時間があった。だが、今とは何かが決定的に違う。それは、今の彼が「自分のために働いている」と感じていることだ。大企業の歯車としての役割ではなく、自分自身の存在意義を感じながら進んでいる。

ある日の夕方、プロジェクトの進捗確認のために鈴木と一緒に地方の企業を訪れた帰り、田中は電車の中でふと窓の外に広がる風景を眺めた。夕暮れ時の空は茜色に染まり、田中の心にも静かな安堵が広がった。

「俺はまだやれるかもしれないな」と田中は自分に言い聞かせるように思った。

そんなある日、鈴木が田中に声をかけた。

「田中、少し話があるんだ。次のフェーズに進むために、君にもっと深く関わってほしいんだ。いよいよ大きな契約が控えてるから、君の経験が不可欠なんだよ。」

田中は鈴木の言葉に一瞬驚いたが、その後すぐに冷静さを取り戻した。これまでの数か月でプロジェクトの進展に少なからず自信を持つようになっていたが、それが「次のフェーズ」となると、責任が格段に大きくなる。だが、同時に心のどこかで、自分が再び本格的な挑戦を迎える時が来たことを感じていた。

「大きな契約か……具体的にどんな内容なんだ?」と田中は尋ねた。

鈴木は一呼吸置いて説明を始めた。「実は、地方の有力な企業とパートナーシップを結ぶ話が進んでるんだ。彼らはうちのプラットフォームを使って新しい事業を展開したいって言ってて、もし成功すれば、こっちも一気に規模を拡大できる。でも、その分、リスクも大きい。彼らは非常に慎重な会社だから、交渉にはお前の経験が必要なんだ。」

田中は少し黙って考えた。これまでのキャリアで交渉の経験は豊富だが、鈴木の言うようなベンチャー企業での大規模なプロジェクトは未知の領域だった。彼がリストラされたのは、こうしたリスクを取ることができなかったからかもしれない。だが、今の彼はあの頃の自分とは違う。

「分かった。俺にできることがあれば、力を尽くすよ。」田中は静かに答えた。

その返事を聞いた鈴木は安堵の表情を浮かべた。「ありがとう、田中。本当に助かるよ。」

その後、田中は鈴木と共に大手企業との打ち合わせを重ねることになった。会議はスムーズに進むこともあれば、時には激しい議論になることもあった。特に、企業側の要求が次々と増え、プロジェクトの収益性に影響を与えかねない場面では、田中の判断が求められた。

ある日の会議で、企業側の担当者が厳しいトーンで要求を突きつけた。「私たちはこのプロジェクトに大きな期待を寄せていますが、もしリスクが過大ならば再検討を余儀なくされるかもしれません。」

その言葉に場の空気が一気に冷たくなった。鈴木は緊張した表情を見せ、他の若いスタッフも固くなっていた。だが、田中はあえて冷静さを保った。これまでの経験が彼に、こうした場面では焦りが禁物だと教えてくれていたからだ。

「おっしゃる通りです。しかし、リスクとリターンは常に表裏一体です。私たちが提供するこのプラットフォームは、今までにない可能性を秘めています。もちろんリスクはありますが、そこに挑戦することで得られる成果もまた大きいはずです。我々はそのための準備をしてきました。」

田中の冷静かつ確信に満ちた言葉に、企業側の担当者も徐々に態度を軟化させた。そして会議が進むにつれ、彼らは田中の提案を真剣に検討し始めた。

数時間後、会議は終了し、鈴木と田中は会社を出た。鈴木は深く息を吐き出し、「いやあ、助かったよ、田中。お前がいてくれて本当によかった。」と笑顔で言った。

田中は疲れた顔をしながらも微笑んだ。「まだ油断はできないが、次に進めそうだな。」

そしてその夜、田中は家に帰り、妻に今日の出来事を話した。以前なら、会社での出来事を家に持ち帰ることは少なかったが、今は違う。新しい仕事に向き合う自分を、妻にも少しずつ共有していた。

妻は静かに聞いていたが、田中が話し終えると、にこりと微笑んで「あなた、本当に楽しそうね。」と優しく言った。その言葉に、田中は少し驚き、そして自分の中に再び小さな希望が芽生えつつあることに気づいた。

「楽しんでるのかもな」と田中は静かに答えた。

それから数日後、鈴木から一通のメールが届いた。それは、例の大手企業がパートナーシップに正式に同意したという報告だった。田中はメールをじっと見つめ、静かな喜びを感じた。長い間、感じることがなかった達成感。それが今、確かに彼の中にあった。

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