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「風に揺れる時間」story9
それから数週間、田中は斉藤とのプロジェクトに本格的に取り組んだ。彼女との関係は、ただの仕事上のパートナーから、少しずつ親密なものへと変わり始めていた。毎日のミーティングや打ち合わせの後、彼らはしばしば一緒に食事に行き、次第にプライベートな会話が増えていった。
ある晩、プロジェクトの進捗報告を終えた後、斉藤が唐突に言った。
「田中さん、少し外を歩きませんか?今日はなんだか気分を変えたい気がして。」
ミーティングが終わると、二人は都会の街並みを歩き始めた。涼しい秋の風が吹き、街灯に照らされた道はどこか静かで落ち着いていた。二人は言葉少なに歩きながら、互いの存在を感じていた。
「田中さんって、こうして外を歩くことが好きですか?」斉藤がふと口を開いた。
「そうだな……最近は特にね。仕事が終わった後、こうして少し静かな時間を過ごすのはいいものだ。」田中は答えた。彼にとって、斉藤との時間は仕事とは違う意味で心地よく、自然体でいられる瞬間だった。
斉藤は少し間を置いてから言った。「私、実はこの仕事を始めてからずっと、何かに追われている気がしてたんです。成果を出さなきゃ、期待に応えなきゃって。でも、田中さんと一緒に仕事をしていると、そのプレッシャーが少し軽くなる気がします。なんて言うんでしょう……あなたといると、自分が少し素直になれるというか。」
その言葉に、田中の心は微かに揺れた。斉藤の真剣な瞳が彼を見つめている。彼女の言葉は、そのまま田中の心に響いてきた。彼もまた、斉藤と一緒にいるとき、自分が少しずつ変わっているのを感じていた。50歳を過ぎても、こうして新しい人との関係が生まれることに戸惑いながらも、どこか期待を抱いている自分がいた。
「ありがとう、斉藤さん。でも、俺も同じかもしれない。こうして一緒に仕事をしていると、前よりも自分の中で何かが楽になった気がするんだ。昔はもっと孤独で、周りに頼ることなんてあまりなかったけど、今は違う。」田中はそう言いながら、遠くに見えるビルの明かりをぼんやりと眺めた。
斉藤は少し微笑んで、「そうですか……じゃあ、私たちはいいチームなんですね。」と軽く冗談めかして言った。
二人の関係は、その時点で仕事だけのものを超えつつあるように感じられた。しかし、田中は同時に複雑な感情を抱いていた。彼には家族がいる。長年連れ添った妻がいて、彼の人生を支えてきてくれた。それに対して、この新たな感情は一時のものなのか、それとも本当に何か深いものが芽生えつつあるのか、田中にはまだ判断がつかなかった。
その夜、家に帰ると、田中はリビングのソファに座り、ふと自分の心の中を整理しようとした。妻はキッチンで夕食を作っていて、その音が静かに部屋に響いている。田中はしばらくその音を聞きながら、頭を抱えて考えた。斉藤との時間は特別なものであり、それが彼を再び生き生きとさせている。だが、それは果たして本当に彼が追い求めるものなのか?
その時、妻がリビングに顔を出した。「おかえりなさい。今日はどうだった?」
田中は「順調だよ」とだけ答えた。何も言わないが、妻の温かい笑顔を見ると、彼の胸の中に罪悪感がわずかに芽生えた。彼は今、自分の心が二つの方向に引き裂かれているような気がしていた。
翌日、オフィスで斉藤と再び顔を合わせたとき、彼の心は再び揺れた。斉藤はいつものように笑顔で「おはようございます」と声をかけてきたが、田中の心の中には昨日の会話の余韻がまだ残っていた。彼女との時間が心地よく、彼はその関係を楽しんでいる一方で、そこには踏み込んではいけない一線があることも感じていた。
その日のミーティングが終わった後、斉藤がふと田中に近づき、小さな声で言った。「また、少しだけ話せますか?」
田中は一瞬ためらったが、彼女の真剣な目を見て、黙って頷いた。二人はオフィスの外へ出て、再び街を歩き始めた。静かな時間が流れ、やがて斉藤がぽつりと切り出した。
「田中さん、私……」斉藤は一瞬言葉に詰まり、彼の顔をじっと見つめた。「最近、あなたのことを考えることが多くて……自分でも、どうしてこんな風に思っているのか分からないんですけど、あなたと一緒にいると安心するんです。」
田中の心は大きく揺れた。彼女の言葉が彼の心の奥に響き、抑えていた感情が表に出そうになる。しかし、同時に彼は自分が今何をすべきかを考えた。目の前にいる斉藤は、確かに彼にとって特別な存在になりつつあるが、それは決して簡単に進むべき道ではない。
「斉藤さん……」田中は一度深く息をつき、慎重に言葉を選びながら答えた。「俺も、君のことを大切に思っている。でも、俺には妻がいるし、君の気持ちは嬉しいけど、ここで立ち止まるべきだと思う。」
斉藤はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。「分かりました。田中さんの気持ちを尊重します。でも……一緒に仕事ができるだけでも十分です。」
二人はその夜、静かに別れたが、心の中には複雑な感情が渦巻いていた。田中は今、二つの世界の間で揺れている。そして、その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からなかった。