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私たちはいつも"贈与する相手"を求めているのかもしれない

最近「贈与」という言葉をよく見かけます。(金銭ではなく精神的な意味の「贈与」です)

加えて年末年始、親戚の高齢者と接する機会が増えたことから、タイトルのようなことを考えていました。

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発端は、こちらの本↓で見かけた
「贈与経済」

「贈与経済」は、モノとモノを等価で交換するのではなく、人が人にモノを贈り、それに対してモノで返礼されるシステム。
大事なのは、等価ではなく、半返し、もしくは多く返礼しなければならないということ。

なぜか。
等価で返さないことで、常に負債はどちらかの手にあることになる。
これにより、「貸し借りの負債感」から、人間関係を続かせることができる。

贈与経済では、負債を清算してはいけない

なるほど・・・。
「負債感」で繋がる人間関係…。

そんな折、たまちゃんがタイムリーに身近な贈与経済の話をしていました。

こちらの記事では、たまちゃんの実家のお店のみかん配り文化や、たまちゃん自身がやっている街のゴミ拾いの話から、

世界の違いはあれど、受け取ってしまったという健全な負債感から返礼せずにはいられなくなることは共通。その返礼を受けて、また別の誰かが健全な負債感を感じ、返礼をする。

これ以上に幸せなループって、あるんでしょうか。

…どうか今年も、返礼が溢れる社会になりますように。

たまちゃんの記事より

そっか、これが貨幣経済に贈与経済のレイヤーを重ねる、ということなのか。。(そして相変わらずたまちゃんいいこと言う…)
と納得していた折、こちらの記事を読みました。

(りなるさん、引用失礼します🙏)

こちらの記事では、
仕事や職場に家族の「ような」関係性を望んでいる人がいる風潮を受け、それが金銭的に成り立つスポットの関係性であると指摘した上で、↓

このような孤独や不安すらも経済合理性によって解決できる、と信じている人はまだまだとても多い。そうではなくて、問題の根本は経済の非合理性、もっと噛み砕けば「贈与」というコミュニティの中でしか解消できない、と少なくともわたしは思っています。ですから、みなさんにも、この先なにか決断を迫られたとき、それが「贈与」による長い関係によってもたらされるのか、経済合理性による短期的な関係であるのか、といったシンプルな判断軸を頭の片隅に持っておいてもらいたいと思うのです。

りなるさんの記事より

確かに、職場があるうちは「生産性」という形で、人に貢献できている感、人と繋がっている感を得られていても、退職したらそこで終わり。
贈与によって成り立つ関係性って、精神的にかなり重要な位置づけにあるかも。

そんなことを考えているうちに、
お正月の帰省に突入し、親戚の高齢者に会う機会が増えました。

***

私の親戚は、今は仕事はしておらず、一人暮らしで、家でずっと過ごしている人が多いです。
いわば、資本主義的な「生産性」を提供することはしていません。
一日中家でテレビを見て過ごしているという人から、一人旅をしながら活発に動き回っている人まで様々おり、自分は何もかも手が離れたらどうやって生きていくんだろう…と考えるきっかけになりました。

そんなバラバラな生き方をしていても、みなさん共通して、何かしらを誰かに「贈与」しようとしているように私には見えました。

例えば義母の場合。
小6の孫をスイス旅行に連れていきたいと、ずっと孫を誘い続けています(しかし頑なに断られている)。
その小6の孫(私にとっては義兄家の息子)は、結構厳しく管理された家庭で育っており、価値観が窮屈に固定化されつつあります。
そんな孫の価値観に、義母は何かしらの影響力を与えたいと思っているようです。(ちなみにスイスは本人が行きたい場所)

次に、姉の旦那さんの父親の場合(私にとっては他人ですが、なぜか私も訪問)。

ご自身の実親からとんでもない面倒な負債を背負ったらしく、自分の子どもにはその負債を渡すまいと、身辺整理をしているようでした。

一見負債を背負わせたくない(=贈与したくない)ようにも見えますが、これも、負債を背負わせない、という精神的な贈与をしているように感じました。

これは言ってしまえば、受け取り方によってはどうとでも捉えられますが、「贈与」にアンテナが立っている私には、どうしても色んな行動が、「贈与したい」思いの結果、発現したもののように思えてなりませんでした。

このnoteもそうかもしれないです。
私なりの「贈与」なのかもしれません。
自分や人の気づきが、noteで波紋のように広がっていったらいいなと思っています。

そう考えているうちに、タイトルのようなことを思うようになりました。

私も、どこにも拠り所がなくなったら
なまはげのように
「誰が贈与する子はいねぇが〜」👹
と、贈与で繋がる関係性を求めて彷徨い歩くのかもしれません。(こわい)

もしかしたら、「生きがい」とか「やりがい」と言われるものも、「贈与する相手がいる場所」と言い換えられるのかも。

最近、在間ミツルさんから紹介されたのなかで、ある詩が引用されていました。

あなたの子どもはあなたの子どもではない
彼らはあなたを通ってやって来るが、
あなたから生ずるのではない
だから、彼らはあなたとともにいるが、
あなたのものではない

〜中略〜

あなたは弓、子どもは生きた矢
あなたは彼らを未来に向けて放つ

カリル・ジブラン「瞑想詩」より

子どもを管理しすぎるなかれ、という文脈のなかで引用されていたものではあるのですが、贈与にも当てはまりそうだと感じました。

わたしたちは、贈与は人と繋がる手段であるのと同時に、未来に向けた「矢」のようなものとしても、贈与を捉えているのかもしれない。

贈与については、これからも考えてみたい。

(↑以前読んだときは全くフックに引っかからなかったけど、今なら引っ掛かりそう)

みなさんは、
贈与で繋がる関係性を持っていますか?

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