私たちはいつも"贈与する相手"を求めているのかもしれない
最近「贈与」という言葉をよく見かけます。(金銭ではなく精神的な意味の「贈与」です)
加えて年末年始、親戚の高齢者と接する機会が増えたことから、タイトルのようなことを考えていました。
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発端は、こちらの本↓で見かけた
「贈与経済」
「贈与経済」は、モノとモノを等価で交換するのではなく、人が人にモノを贈り、それに対してモノで返礼されるシステム。
大事なのは、等価ではなく、半返し、もしくは多く返礼しなければならないということ。
なぜか。
等価で返さないことで、常に負債はどちらかの手にあることになる。
これにより、「貸し借りの負債感」から、人間関係を続かせることができる。
贈与経済では、負債を清算してはいけない。
なるほど・・・。
「負債感」で繋がる人間関係…。
そんな折、たまちゃんがタイムリーに身近な贈与経済の話をしていました。
こちらの記事では、たまちゃんの実家のお店のみかん配り文化や、たまちゃん自身がやっている街のゴミ拾いの話から、
そっか、これが貨幣経済に贈与経済のレイヤーを重ねる、ということなのか。。(そして相変わらずたまちゃんいいこと言う…)
と納得していた折、こちらの記事を読みました。
(りなるさん、引用失礼します🙏)
こちらの記事では、
仕事や職場に家族の「ような」関係性を望んでいる人がいる風潮を受け、それが金銭的に成り立つスポットの関係性であると指摘した上で、↓
確かに、職場があるうちは「生産性」という形で、人に貢献できている感、人と繋がっている感を得られていても、退職したらそこで終わり。
贈与によって成り立つ関係性って、精神的にかなり重要な位置づけにあるかも。
そんなことを考えているうちに、
お正月の帰省に突入し、親戚の高齢者に会う機会が増えました。
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私の親戚は、今は仕事はしておらず、一人暮らしで、家でずっと過ごしている人が多いです。
いわば、資本主義的な「生産性」を提供することはしていません。
一日中家でテレビを見て過ごしているという人から、一人旅をしながら活発に動き回っている人まで様々おり、自分は何もかも手が離れたらどうやって生きていくんだろう…と考えるきっかけになりました。
そんなバラバラな生き方をしていても、みなさん共通して、何かしらを誰かに「贈与」しようとしているように私には見えました。
例えば義母の場合。
小6の孫をスイス旅行に連れていきたいと、ずっと孫を誘い続けています(しかし頑なに断られている)。
その小6の孫(私にとっては義兄家の息子)は、結構厳しく管理された家庭で育っており、価値観が窮屈に固定化されつつあります。
そんな孫の価値観に、義母は何かしらの影響力を与えたいと思っているようです。(ちなみにスイスは本人が行きたい場所)
次に、姉の旦那さんの父親の場合(私にとっては他人ですが、なぜか私も訪問)。
ご自身の実親からとんでもない面倒な負債を背負ったらしく、自分の子どもにはその負債を渡すまいと、身辺整理をしているようでした。
一見負債を背負わせたくない(=贈与したくない)ようにも見えますが、これも、負債を背負わせない、という精神的な贈与をしているように感じました。
これは言ってしまえば、受け取り方によってはどうとでも捉えられますが、「贈与」にアンテナが立っている私には、どうしても色んな行動が、「贈与したい」思いの結果、発現したもののように思えてなりませんでした。
このnoteもそうかもしれないです。
私なりの「贈与」なのかもしれません。
自分や人の気づきが、noteで波紋のように広がっていったらいいなと思っています。
そう考えているうちに、タイトルのようなことを思うようになりました。
私も、どこにも拠り所がなくなったら
なまはげのように
「誰が贈与する子はいねぇが〜」👹
と、贈与で繋がる関係性を求めて彷徨い歩くのかもしれません。(こわい)
もしかしたら、「生きがい」とか「やりがい」と言われるものも、「贈与する相手がいる場所」と言い換えられるのかも。
最近、在間ミツルさんから紹介された本のなかで、ある詩が引用されていました。
子どもを管理しすぎるなかれ、という文脈のなかで引用されていたものではあるのですが、贈与にも当てはまりそうだと感じました。
わたしたちは、贈与は人と繋がる手段であるのと同時に、未来に向けた「矢」のようなものとしても、贈与を捉えているのかもしれない。
贈与については、これからも考えてみたい。
(↑以前読んだときは全くフックに引っかからなかったけど、今なら引っ掛かりそう)
みなさんは、
贈与で繋がる関係性を持っていますか?