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二項対立だけじゃない世界があるよね、と思う

アリとキリギリス、
ホワイト企業とブラック企業、
成功した人そうでない人、
生産的・非生産的、

世界を分類するとスッキリするし、
無意識に、物事を二項対立にして考えがちに
なってることってよくあるなと感じます。

たとえば、

「あの人は残業して働いている」

と形容すると、
途端にブラック企業で馬車馬のように働かされて疲弊している人を想像してしまう。

けど、

すごく楽しんで残業してる可能性
もありますよね。

そんなはずない!
きっとその人は真の"楽しみ"を知らないのだ!

と反論されてしまえば
何も言えないのですが、

残業=人生を損なうもの

とは一概に言えないような気がします。
その間には人の数だけのグラデーションが

***

アリとキリギリス。
これも境界は曖昧な気がしていて。。

周りからはアリに見えていても、
本人の気分はキリギリス。
ということもあるんじゃないかな?

と最近思います。

思い当たるのは、いつかママボランで起業した人たちの話を聞いたとき。
仕事がとてもホワイトとは思えなくて。
むしろ、ブラック寄り?

たとえば、

・仕事と家庭の境界が曖昧になっていて、
・仕事でイライラすると家族に当たる、
・家族の理解と協力を得て全力で仕事をする

「イライラすることも、うれしいことも、全部ひっくるめて、感情の絶対値の総量が大きいほうを選びたい」

と言っておられる方も。

ママボランの稲田さんが、
「仕事は大人にとって最高の学び」
とキラキラしながら言っていたのも、印象に残っています。

***

場面は変わって、生活の話。

我が家は、毎朝窓が結露します。
油断するとカビも…。

引っ越したほうがいいのでは!?

と思われそうですが、
私は不思議と窓拭きが嫌ではありません。

むしろそれどころか、窓拭きをすることで、心が豊かになる感覚があります。

以前こちらの本で、「摩擦」という言葉を見かけました。

テクノロジーの進化によってグーグルやアマゾンのようなビッグテックは、わたしたちの暮らしを完璧にコントロールし、最適化しようとしている。これは美しい「没入」の世界である。   
 しかし、わたしたちは「没入」だけで満足できるわけではない。「没入」だけでなく、外界や他者との心地良い「摩擦」が必要なのだ。

本書より

(この本を読んでから、日常的に"摩擦"を快・不快に分類する癖が…)

窓拭きは"摩擦"には変わりないけど、
"不快な"摩擦にも、"心地よい"摩擦にも、
どちらにも転びうると感じました。

窓拭きを怠れば、一転。
カビるし、それを見て自己肯定感も下がるだろうし、カビ取り剤の匂いは頭が痛くなるし、大打撃だと思います。
そうなると"不快な摩擦"に違いない。

***

場面は変わり、思い出話。

私は第一子育休中、育休にも関わらず仕事をしていた期間があるのですが、その時の感情を分解してみると…

興奮:4割
不幸:3割
罪悪感:3割

という感じ。

興奮は、知的好奇心がくすぐられる楽しい感じ。やり始めると、もっとやっていたい。みたいな。(文章を書く仕事だったからかも)

不幸は、
「育休中なのに、仕事をしなきゃいけない私はもしかして不幸なのでは?」
というおそらく社会的な観点。
これって、きっと普通のことじゃないよね。みたいな

罪悪感は、
「本来子どもを見るべき時間に仕事をしている私は、悪いことをしているのかも」
という、どこから刷り込まれたのかもはや分からない価値観。
(この感覚は今はだいぶ払拭)

何が言いたいかというと、

自分自身、もっとやっていたい!という思いとは裏腹に、

「やるべきことではないのでは?」
「つらいことをさせられているのでは?」

という思い込みのようなものに、"不幸な気持ち"にさせられていたような気がします。

仕事自体は感覚的には"心地よい"摩擦。
けど、私の中にある常識のようなものが、"不快な"摩擦にさせようとする感覚。

***

なんだかうまく締められませんが

二項対立に分断して正誤判定するのでなく、
自分の快・不快に素直になりたい。

と思う、という話でした。

ただ、不快な摩擦は意外と心がけ次第で心地よいものに転換できてしまったりして、どんどんやれてしまうのも事実。。
そうなると本末転倒な気もする…。
まず不快だと思ったら、やめる方向に持っていったほうがいいのかな。

色々書きましたが、本音はこれ。

\結露しない家に住みたい!/

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