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大学生はこうして色を亡くす。

大学二年、秋の独白。

大学に入ってからなにかを失う様な感覚を持ちながら一日一日を過ごしている。危機感というには崖っぷちな感じが足りないし、喪失感といえるほど明確な何かを失っているわけでもない。

こんな風に書くとなにか僕がとんでもない何かに追い詰められているように聞こえるけれど、

僕は世の中にいくらでもいる大学生だ。ぼっちなわけでもないし、何かに不自由してるわけじゃない。でもふつうの大学生って僕が高校生の時思っていたよりよっぽど薄かった。

バイトして遊んでサークル行ってそのあとに飲んだり、オールしたりしてだらだら過ごす。隣の女の子と仲良くなっちゃったりして、そんでTwitterでもFacebookでもなんでもいい、「OO最高!!」「海なう」とか投稿すれば立派な「リア充」の出来あがりだ。僕らは競うようにそれをやるし、自分以外の誰かがそれをやっているのを見ると自分もやらなきゃなって思うようになる。大学生のゴールって僕の知らないうちに「リア充」になっていたらしい。

僕もこの夏幾度となくそういうことをした。でも三回目あたりで、SNSのタイムラインが同じような書き込みで埋まっているのに気づいて寒気がしてTwitter自体をやめた。

要約すれば「遊んだ」の三文字で済むようなことをなぜ友達に伝えなきゃいけないのかと思ったからだし、みんなが同じものに気を取られ、同じことを言っていることに怖くなったからだ。

「楽しさの記号化」って表現がまさにぴったりだと思う。何かの集団で「ほかの人が楽しいと言っていた」なにかをやって「楽しい」という言葉と一緒に「楽しそうな」写真をどこかに投稿する。この「作業」で人は楽しいという記号を得ているんだと思う。でもそれで手に入る「楽しい」って感情はホントにその人のものなのか僕は実際のところ少し疑っている。誰かが楽しいって思った行動をそのままトレースしてるだけな気がしてならないんだ。

僕はリア充ツイートをやめろとかFacebookに写真をアップするなとか言いたいわけじゃ決してない。夏にみんなで行く海はもちろん楽しい。でもそれ以外にもいっぱい楽しさは得られると思ってる。自分と違うからってそんな目で見るべきじゃない。誰かの楽しみ方=自分の楽しみ方とは限らない。僕はみんなが同じような行動しかしなくなって、自分が他人と区別できなくなっていくことを恐れている。誰でもいい誰かになることを恐れている。そんなことあるわけないなんて誰にわかる?

誰でもいい誰かってのは、たとえば君は君じゃなくて、当たり前だけどほかの誰かでもいいってことになる。でも自分が自分じゃなくてもいいのなら、それは自分はいないと同じことなんじゃないか?

少なくとも僕にそう思えてならない。

僕は自分がいなくてもいい存在だなんて絶対に思いたくない。誰でもいい誰かなんて嫌だ。そのためには平凡な人間から脱却しなきゃいけない。何かしなくちゃいけない。

でも僕の生活は相変わらず「リア充」に気を取られてばかりだ。きっとこの矛盾が最初にいった「漠然とした危機感のようなもの」の源なんだろう。

非凡な人は僕がこんなことを書いている間にもきっと突き進んでいるんだろう。ますます非凡になっていくんだろう。逆に僕らはどんどん色が薄くなっていく。もうほとんど透明だ。凡庸であり続けたら僕は「誰でもいいだれか」から抜け出せないままだ。生まれた意味をつくれないままだ。

もちろん劇的に日常を変えてくれるきっかけなんてないのはわかってる。そのきっかけなんて自分で作る以外にないってこともわかってる。だから残り半分の時間をせめてなにかチャレンジすることに使おうと思う。ドイツ語でも早起きでもなんだっていい、大事なのは内容じゃなくて「動く」ことそれ自体なんだ。

最後に、この文章を読んで同じようなことを感じてくれた人がいたとしたら、やっぱり何かにチャレンジしてほしいと思う。きっとそれだけでちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、「動く」ことをしないひとより非凡になれるはずだ。それとも僕と一緒になにかやる?

住んでるとこが遠かったらまずは一緒に海外に行くってのもありかもしれない。そしたら出発地点なんて関係ない。行きつく先は同じなんだからそこで会おう。凡庸さから逃げ切るための方法を一緒に考えよう。ちょっとでも非凡に近づくために動こう。僕らもたまには頭を使うべきなんだ。

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