【シャニマス】「いきどまりの自由」の自由律解釈
1.はじめに
この記事はシャニマスのシナリオイベント「いきどまりの自由」についての考察・感想の記事となっています。
注意事項:
この記事は読まない方が良いです。ネタバレはもちろんありますが「ネタバレがあるから読まない方が良い」という理由ではなく、この記事を読んだ瞬間にあなたにとっての「いきどまりの自由」が変化してしまうことが私は少し怖いのです。私自身がそういった変化を嫌う傾向にある人間だから。
……よろしいでしょうか。では続きをどうぞ。
2.専門学生は”劣化”
「それでは、本日からー」
この台詞から始まる一連の撮影シーン、私は専門学生のことを誰かより劣る存在とか、熱意のない存在だとは思えませんでした。最初の会話シーンではその「熱量」に不安を覚えたことは事実ですが。
必要に応じてノクチルの4人とも相談し答えを引き出すこともできる。
あえて言うなら……
そうだ、プロデューサーの劣化だ。
これがコミュを読んでいたときの第一印象でした。
3.専門学生はワタシ
「プロデューサーの劣化」という発想が出てきた瞬間、私は私自身を酷く嫌悪しました。おいおい……まだ読んでる途中なのにとんでもない考えを頭に浮かべるんじゃないよ……って。
しかし、読み進めていく内に別の考えが浮かんできました。
この専門学生は私かもしれない
あるいは
この専門学生は「あなた」かもしれない
たとえば、シャニマスに関わる人で「自分は所詮は悪霊。プロデューサーではない」って言っている人を見たことがありませんか?
あるいは
「私が描かなくても、公式が描いてくれる。仮に公式が描けない領域でも、私よりもっと絵が上手い人が描いてくれる」と言っている絵師の方とか。
たとえばこの記事を書く私の立場で言うなら……私なんかが考察やら感想やら書いたところでどうせ私より深い記事を書いている人がいる。適切な解釈を与えている人がいる、とか。
実はいろんな人が自分のことを何かの劣化だと思って踏み出すことを恐れたりしているのではないでしょうか。しかし、このシナリオの中で専門学生は「形」にしました。それは結果として何をもたらしたでしょう?プロデューサーの「プロデュース」とは違う何かであったはずです。専門学校で見た多くの熱意ある人の作るものとも違う、そこにしかない輝きであったはず。
このシナリオはある種の「発信」なのかも。これを受けて、あなたが何か「応答」……つまり踏み出すことがあったとしたら……何かの、誰かの、ノクチルの未来が変わることがあるかもしれない。そんなことを伝えたかったのではないでしょうか。
4.おわりに
さて、これが私の解釈ですが、みなさんは「いきどまりの自由」についてどのように考えたでしょうか?
このシナリオの中でノクチルを自分に対してポジティブな解釈としてある種の「利用」をする人たちが登場します。
その一方で、インフルエンサーのように「ノクチルは合わないわ」と考える人もいる。
そんな中でこのシナリオを読むあなたはどのように考えるのでしょうか。円香の言葉を思い出しました。このシナリオは、『ひとりひとり』の解釈で良いのではないかなって。
……だからこの記事で私の解釈を真面目にとらえてしまっている人がいるとしたら、一旦この記事のことは忘れていただいても全く問題ないので、自分なりの答えを探してみるのも一興かなと思います。
専門学生は決してプロデューサーの劣化ではないと思います。もし「何かの劣化」があるとしたら……あなたの考えを出力できるのはあなたしか存在しない。私はその点において確実にあなたの完全な劣化だと言うことです。
心の中で出力するだけでもいい。何か「形」にしてみるのも良いと思います。
以上です。
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