見出し画像

講演「落合直文『萩之家歌集』をいきいきと読む

角川「短歌」2022年3月号で「生誕160年 落合直文」特集が組まれ、読売新聞(2022年5月19日)にも「落合直文 再び注目」というかなり大きな記事が出ました。
以下は、2019年に、直文の生誕地である宮城県気仙沼市で行われた、第33回落合直文全国短歌大会で行った講演録です。
私もこのときに初めて本格的に落合直文の歌を読み、そのおもしろさや現代に通じる新しさに驚かされたのでした。
『萩之家歌集』は、落合直文が亡くなってから出版された歌集です・直文が、萩の花が好きだったことから、この題名になったそうです。
『萩之家歌集』は、現代短歌社から文庫本が去年出版されましたので、興味を持たれた方は、ぜひ読んでみてください。

===========================

講 演

『萩之家歌集』を生き生きと読む


先ほど『桜井の訣別』(青葉茂れる)の合唱がありまして、落合直文はその作詞をしているわけですが、この歌は、南北朝時代に後醍醐天皇のもとで戦った楠木(くすのき)正成(まさしげ)を歌っているのですね。

「正成涙を打ち払い/我子正行(まさつら)呼び寄せて/父は兵庫へ赴かん/彼方の浦にて討死(うちじに)せん」

という歌詞がありますが、桜井(現在の大阪府三島郡島本町)で、息子の正行と最後の別れをして、戦に向かっていった姿が歌われています。

「早く生い立ち大君に/仕えまつれよ国の為め」

という歌詞もあって、天皇のために命を捧げた忠臣として、太平洋戦争の頃は非常に評価が高かった武将です。『この世界の片隅で』という戦時中の広島を描いた最近のアニメ映画がありますが、その中でも「楠公飯」のエピソードが出てきます。「楠公」とは楠木正成のことですね。当時の尋常小学校の修身(現在の道徳)の教科書には、桜井の別れについて書かれた文章が掲載されていましたし、「青葉茂れる」も、よく歌われていたようです。

しかし、1945年の日本の敗戦後、楠木正成は軍国主義の象徴として、非常にイメージが悪くなってしまいました。この歌が発表されたのは明治32年(1899年)ですから、昭和の戦争とは全く関係ないのですが、軍国主義につながる歌として警戒され、戦後は公の場でほとんど歌われなくなるという、不幸な経緯があるんですね。

また直文の代表歌としてよく挙げられるのが、「緋縅のよろひをつけて太刀はきて見ばやとぞおもふ山さくら花」ですから、どうしても国粋主義的なイメージで見られてしまうところがあります。私自身にも、やはりそういう先入観がありました。

ところが、落合直文の『萩之家歌集』を今回じっくりと読みまして、ずいぶんイメージと違っているなあと思いました。明治39年(1906年)の刊行ですので、もちろん今の目で見ると古めかしい歌も多いのですけれど、その中にとても新鮮な歌が混じっている。与謝野晶子や正岡子規などが近代短歌の創始者として評価されることが現在は多いのですけれど、それ以前に新しい時代の息吹をとらえている歌があったのだなあ、とあらためて感銘を受けました。落合直文の歌のおもしろさを、今日はぜひ、お伝えしたいなと思っております。

私の資料を1枚お配りしましたが、それに沿ってお話ししたいと思います。

さっきの合唱でも歌われた、

① 砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず

ですが、初めて読んだとき、とてもびっくりしてしまいました。歌謡曲で、砂浜に名前を書いたけれど、波が消していくという歌はかなり多いでしょう。サザンオールスターズの『真夏の果実』にもそういう歌詞があるんですね。それを120年ぐらい前に作っていたことに驚かされるんです。

前田透の著作『落合直文』には、「『恋人』という名詞を歌に初めて使ったのも直文がおそらく最初であろう」(p.203)と書かれています。ただ、直文の歌は初出が「明星」1号(明治33年4月)ですが、それ以前に「少女子(をとめご)の恋ならばいざ泣きてやまんわが恋人(こひびと)はますら男(を)にして(詞書:東京なる飯島和田の二友に寄する手紙のはしに)」(与謝野鉄幹「読売新聞」明治31年7月22日)という歌が存在します。残念ながら「直文がおそらく最初」ではないようです。(『鉄幹晶子全集 別巻2』p.37参照)

今では「恋人」は当たり前のように使われていますが、明治時代には非常に新しい言葉だったわけです。そうした新語を短歌に導入する試みを、(最初ではなかったとはいえ)直文は積極的に行っていたことがわかります。直文の歌のほうが、鉄幹の歌より、ずっとロマンティックで、優れた歌ですしね(鉄幹の歌は男友達にふざけて「恋人」と呼びかけた歌のようです)。

② 恋のために身は痩せやせてわが背子(せこ)がおくりし指輪ゆるくなりたり

この歌にもびっくりしました。若い人は知らないと思いますけれども、渡哲也に『くちなしの花』という昭和48年の大ヒット曲があります。今でもカラオケでよく歌われています。その歌詞が、指輪も回るほど痩せてしまった、という出だしなんですね。

こういうふうに落合直文は、日本の歌謡曲の感性を120年以上前に先取りしていたんじゃないか、という気がします。あるいは、日本人の抒情の基礎になるものを、直文たちが作り出して、現在のJポップなどにも流れ込んでいる、というふうに言い換えてもいいのかもしれません。そういうふうに考えると、直文が、ぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。

落合直文が生きていた明治期の日本は、交通も大きく変わっていった時代でした。東北本線が通じたのも明治24年ですから、130年ぐらい前に、鉄道が東京から東北までつながったんですね。

③ 鬼のすむ安達が原も君が代はくるまの上に寝て過ぎにけり

昔は、東北に行くなら芭蕉の『奥の細道』のように、ずっと歩いて旅するしかなかった。ところが、汽車が走り始めたので、安達が原(福島県二本松市にある、鬼婆伝説が有名なところですね)も、汽車に乗って眠って過ぎていったよ、という歌です。新しい文明を体験した喜びが、ここに歌われているわけなんですね。

④ 曳く人に舟をまかせてゐながらに堤づたひの蟲をきくかな

一方、こんな歌もあります。舟は、川の流れに乗って漕いでいくと速いですよね。しかし、流れとは逆方向に行かねばならないときもあります。そんな場合、舟にロープをつないで、岸から引っ張ったらしい。自分は何もせず、舟を曳く人に任せて、座って虫の音を聞いているという、ちょっとお気楽な歌。現代では、こんな舟旅をすることはあまりないですね。観光用くらいですか。でも当時は、江戸時代からの川舟を使う旅と、汽車の旅とが共存している時代だったんですね。古いものと新しいものが入り混じっている。そういうところに注目して、落合直文の歌を読んでみるのもおもしろいんじゃないかと思います。

⑤ 病む人の戸口にかけし乳入(ちちいれ)を夜すがら鳴らす木がらしの風

最近は、牛乳配達もずいぶん減りました。年配の方はよくご存じでしょうが、一昔前は、瓶に入った牛乳を、家に運んでもらっていましたよね。それが始まったのが明治20年ごろなんです。「乳入」は牛乳瓶を入れる箱でしょう。今は牛乳は誰でも飲みますけれど、当時は牛乳といったら病気をした人が飲むというイメージがあったんですね。ですから、牛乳を入れる箱があるのは病人の家であるわけで、やや悲しい情景だった。「木がらしの風」という寂しいものと組み合わされて歌われています。当時としては新しい題材を歌っていた一首だと思います。

⑥ たたりありと切り残されしこの村の一もと榎わか葉しにけり

これも時代が反映された歌だと思うんです。明治時代になり、郊外もだんだん都市化していく。それで、神社の木などを切るということが起きてくる。明治40年に南方熊楠が起こした神社の森の伐採反対運動が有名ですね。この歌はその少し前の時期ですが、開発のために村の樹木がどんどん切られるということがあったのでしょう。しかし、切ったら祟りがあるという言い伝えがあった古い榎だけが残されたわけです。春になり、美しい若葉が出ているのを見て、直文は、この木が残ってよかったなあ、と思ったのでしょう。文明開化は進んだけれど、まだ祟りを信じる感性も村には残っていたんですね。直文も、文明によって自然がどんどん破壊されていくことには、違和感があったのではないでしょうか。

それから、明治時代になると、西洋の芸術もどんどん日本に入ってきます。

⑦ ましろなる石よりなれるこの少女おのれきざまば衣(きぬ)きせましを

「ましろなる石」は大理石ですね。それに裸体の少女が彫刻されていたのでしょう。「おのれきざまば衣きせましを」というのは、自分が彫刻するのであれば、服を着せてあげたいなあ、という意味です。明治34年ごろに、日本に西洋から裸体画が入ってくるんですね。それで、明治政府が厳しく禁じまして、美術館の裸体画の腰に布を巻いて隠したとか、そういう事件が起きています。ヌードに対して、政府だけではなく、一般の人々の中にも、こういうのは恥ずかしいな、とか、いやらしいなという思いはあったんですね。直文は、少女が裸体にされていることを、かわいそうだな、と感じたのでしょう。はしたない、と単に嫌悪するのではなく、視線に優しさがある気がします。

⑧ をとめらが泳ぎしあとの遠浅(とほあさ)に浮環(うきわ)のごとき月うかびいでぬ

海水浴も明治18年くらいから行われるようになったらしいです。神奈川県では男女混泳を禁止していたそうです。私は勘違いしていて、ビニールの浮き輪をイメージしていたんですけれども、もちろん当時はビニールはなくて、木でつくった救助用の浮き輪があったらしいんですね。「浮環」と表記されていますが、「ふかん」とも読むそうです。今でも船に取り付けてあるのを見ることがありますね。それに「うきわ」とルビを付けて、やわらかな響きにしています。

海水浴という新しい題材を、ユニークな比喩を使って表現しています。どこか絵画的で、情景がくっきりと目に浮かびます。もしかしたら、西洋画の影響を受けているのかもしれません。日本画で描かれる海とは、だいぶ印象が違うように思うんです。「海」という言葉を使わず、「遠浅」で表しているところも、とても巧みではないでしょうか。

⑨ うつしなば雲雀の影もうつるべし写真(しやしん)日和(びより)のうららけき空

写真も西洋から新しく入ってきた技術ですよね。こうして見てゆくと、落合直文は、新しい題材を熱心に歌の中に取り入れようとしたことがよく分かります。当時のカメラの性能で、飛んでいる雲雀がうまく撮れたかどうかわからないんですけれども、おもしろい発想です。「写真日和」という言葉が落合直文の造語かどうか分かりませんが、「写真を撮るのにちょうどいい、明るく晴れた日」ということなんでしょうね。当時の短歌では、とても新しい響きの言葉だったのではないでしょうか。

⑩ 夕日かげななめにうけて里川の岸の合歓(ねぶ)の木ねぶりそめたり

「ねぶのき」は合歓(ねむ)の木のことですね。合歓の木は、夜になると葉を閉じて眠ったように見えるんですね。夕方だから「ねぶりそめたり」、眠りはじめる頃だな、と思っている。「夕日かげななめにうけて」という表現について、前田透の『落合直文』に、「斜光の手法は印象派の風景画によく見られるが、直文は西洋印象派絵画の影響を直接に受けたと思われる。」(p.219)と書かれています。とても興味深い指摘です。そういうふうに、西洋から新しい絵画の技法が入ってくると、それに影響されて、風景の見方も変わっていくんですね。

このようなことは現代でもあると思います。たとえばパソコンやインターネットが普及してきますと、記号を文章の中に使うことが増えてきます。少し前に「記号短歌」が話題になったりしました。

ただ、単に新しいものを歌に取り入れればよいか、というと、やはり違うのでしょう。表面的になぞるのではなく、本質的なものを捉えた表現が、次の時代にも伝わっていくのだと思います。落合直文の歌は、今読んでも、自然に伝わるようなおもしろさがあります。「夕日かげななめにうけて」は、現在の短歌でも似たような描写をよく見ます。「写真日和」という言葉は、現代でも、お洒落な雰囲気で使われています(インターネットで検索すると出てきます)。直文の歌には、今の時代でもよく分かるなあ、という感じがするものが多いんです。それは、新しいものの中から普遍的なものをつかんでいたからではないでしょうか。

少し話題を変えます。

⑪ うばらとはおもはれぬまで針ごとにむすびとめたる露の白玉

美しい歌ですね。「うばら」はイバラのことで、トゲがたくさんあって、触るとすごく痛いんですが、針ごとに水滴がついて光っているんですね。嫌なイバラとは思われないぐらい美しいなと歌っています。小さな針の一つ一つにしずくがついている様子を見ていて、細かい歌ですよね。細部を注目することで生まれてくる美というのも、近代短歌になって生まれてきたものだろうと思います。

正岡子規に「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」という有名な歌がありますね。身の回りの自然を細かく読んでゆく表現が、明治30年前後に生まれてきたのだと思うんですけれども、落合直文はそれと同時期か、あるいは少し早くその美を発見していた気がするんです。

⑫ もののふの背に負ふ母衣(ほろ)のほろほろと鳩ぞ啼くなる八幡(やはた)の宮に

母衣(ほろ)というのは、昔の戦のときに武士が背中につけた大きな袋ですね。『平家物語絵巻』などを見ると、描かれたものを見ることができます。弓で射られてもクッションのような役割を果たして、矢が刺さらないわけです。「母衣」という言葉から「ほろほろと」が出てきて、鳩の鳴く声につながっているんですね。確かに山鳩はホロホロ鳴くような気がします。古典和歌の「掛詞」(かけことば)や「序詞」(じょことば)と近いですけど、もう少し遊びが入ったおもしろい表現ですね。佐佐木幸綱さんに「泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕(かいな)に眠れ」(『夏の鏡』)という歌があります。「こんこんと雪が降る」と、「こんこんと眠る」を重ね合わせた表現ですが、それに近い感じがします。現代でも生きている技法を、落合直文は使っているんですね。

⑬ 滝壺に落ちて沈みてまた浮きて椿ながるる谷川の水

これは分かりやすい歌ですね。おもしろいのは、「落ちて」「沈みて」「浮きて」「ながるる」と、動詞がすごく多いところです。たぶんこのあたりも工夫しているんじゃないでしょうか。短歌では、あまりたくさん動詞を使わないほうがよいと言われます。動詞多いとちょっとくどい感じになりやすいんです。しかし、そういう常識をあえて破ろうとしたのではないか。この歌では動詞が多いことで、スローモーションの映像を見るような効果が表れています。

⑭ 庭ぎよめはやはてにけり絲萩をむすびあげたるその縄をとけ

「庭ぎよめ」つまり庭掃除をするときに、萩の花が邪魔なので、枝を縄で結んで上に上げていたんですね。それで、庭の掃除が早く終わったので、早く解いて、また萩の花を元に戻しなさいと歌っている。日常茶飯事の細かいところに注目して、萩の花への親しみが感じられる歌になっています。こうした生活感は、古典和歌にはあまり出てこないもので、近現代短歌でよく歌われるようになった題材でしょう。

結句の「縄をとけ」は命令形なんですけれども、これも古典和歌では珍しいんですね。『万葉集』には「信濃路は今の墾道刈株に足踏ましなむ沓はけわが背」という歌があるんですが、それ以降はあまり見ないはずです。だから命令形を使ったことにも、かなり思い切った工夫があったんじゃないでしょうか。

落合直文の歌は一見地味な感じがするんですけれども、よく読んでいると、さりげなく新しい表現をしているんですね。命令形とか、動詞が多いとか、従来の和歌にはなかった新しい表現をしようとしている。意外と気づかないんだけれども、よく読むとおもしろい試みをしていると思うんですね。そういうところを見つけながら読むのは、とても楽しいんじゃないでしょうか。これが今日のタイトルの「生き生きと読む」に関わるところなので、最後にもう一度まとめて述べたいと思います。

⑮ 三足(みあし)四足(よあし)あとへもどりて松が枝の藤の花をばあふぎ見しかな

「三足四足」から始まる歌は、当時珍しかったんじゃないでしょうか。ちょっとユーモアもありますよね。通り過ぎた後に、三、四歩戻って見たという動作を思い浮かべるととても楽しい。

⑯ 病める身ははかなきものよ人よりも二十日おくれて衣がへせり

晩年は病気がちだったそうですね。病気だから普通の人よりも20日ぐらい遅れて衣替えをしたという。病人で出歩くことがないから、つい衣替えが遅くなってしまう。健康な人はどんどん先に行ってしまうけど、病人だと生きるのがゆっくりになってしまうんですね。その時間のズレが歌われていて、しんみりと悲しい歌だなと思いました。

「二十日おくれて」がとてもいい表現で、20日という具体的な数字が効いている。漠然とした遅れじゃなくて、数字を出して具体的に歌う。これも近代短歌から始まった表現だと思うんですね。有名なのは与謝野晶子で、「髪(かみ)五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ」(『みだれ髪』)とか、数字が印象的な歌が多いんです。そういうところも、直文は先駆的だった気がします。

⑰ たちいそぎ衣(きぬ)とりいるるかたへよりやがて霽れゆく夕立の雨

夕立が降ってきて、干してあった着物を急いで家の中に取り入れたが、すぐに晴れてきた、という歌。夕立の過ぎてゆく速さがよく伝わってくるし、日常生活の何でもない一場面がうまく切り取られています。こんな歌は、現在でもよく見るんじゃないでしょうか。

どうしても我々は大きいテーマを歌おうとしてしまうんですけれども、日常にあるものを表現していくことも、すごく大事だと思いますね。身の回りのことってつまらないものだと思いやすいんですよ。でもそうではなくて、日常の何でもないことも、表現によっては深い味わいが生まれてくる。直文はそれをよく知っていて、生活の断片のおもしろさを表現する新しい方法を切り拓こうとしていたんじゃないでしょうか。

⑱ 礼(ゐや)なしてゆきすぎし人を誰なりと思へど遂に思ひでずなりぬ

挨拶をして過ぎていった人がいて、誰かなあと思ったけど、結局思い出せなかった。これは、たまに経験することがあるんじゃないか。『サザエさん』でもこんな場面を見た記憶があるんですけれども。簡潔な言葉で、状況をうまく切り取っていますね。次の歌も同じような文体です。

⑲ このたびはいはむと思ひしそのことをいはでまたまた別れぬるかな

「このたびはいはむ」だから、今回は言おうと思って行ったんですね。でも、それを言わないでまた別れてしまったという歌です。恋の場面でもいいですし、どんな場面でもいいんだけれども、誰でも経験する場面ですよね。こういう歌を読むと、なるほど、確かにそんなことがあったなあ、と思ってしまう。こういう歌では、「いつ」「どこで」「誰と」ということを細かく書かず、誰にでも当てはまるように、分かりやすく歌っている。共感を誘う歌い方と言ってもいいでしょう。

これは、石川啄木に影響を与えているんじゃないかなという気がするんです。啄木に「かの時に言ひそびれたる/大切の言葉は今も/胸にのこれど」(『一握の砂』)という歌がありますね。啄木の歌は、あのときに言えなかった大切な言葉は今でも自分の胸の中にあるよ、という意味なんですけれど、直文の歌の後日談という感じがしますね。簡潔な文体もよく似ていると思うんですよ。直文の歌が石川啄木に影響を与えたという可能性はあるんじゃないかなと感じますね。次の歌もそうです。

⑳ 夕ぐれを何とはなしに野にいでで何とはなしに家にかへりぬ

何となく家を出て、何となく家に帰ってきたという、本当に何もない歌なんだけれども、夕暮れの虚無感が伝わってきて、自分にもこんなことがあるなあ、と思わせる歌です。

この歌も、石川啄木に似た歌があります。「何となく汽車に乗りたく思ひしのみ/汽車を下りしに/ゆくところなし」(『一握の砂』)。どうでしょう。共通する感覚がないでしょうか。

落合直文の歌は、〈何もない時間〉を発見していて、それがすごく新しかったんじゃないかと思うんです。考えてみれば、人生の中には、何もできないで終わってしまった日はたくさんあるじゃないですか。いつも充実しているわけではなくて、何もない日、むなしい日のほうがむしろ大部分かもしれない。そんな無為の時間は、近代短歌以前には意識的に表現されることはなかった。石川啄木の歌がやはり有名なので、啄木がその創始者のようになっていますが、落合直文も〈何もない時間〉を表現しようとしていたと思うんです。これは本当に新しい表現で、現代短歌にもすごく大きな影響を与えています。ぼんやりとしている時間の感覚は、今でもよく歌われているんです。

㉑ をさな子が手もとどくべく見ゆるかなあまりに藤のふさながくして

ここから家族を詠んだ歌に入っていきます。小さい子供でも触れるぐらい藤の花が垂れてきているという歌ですね。実際にそこに幼い子がいたのかどうかは分かりませんが、かわいらしい歌だなと思いますね。正岡子規に「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」という歌があって、落合直文の「文机の小瓶をのせてみたれどもなほたけ長し白藤の花」のほうが先に作られていたらしい。そして「をさな子が」の歌のほうが、さらに前に作られています。幼い子と藤の花を取り合わせた歌も、なかなか味わいがあっていいのではないでしょうか。

㉒ をさな子が乳にはなれて父と共に寝たるこのこと日記(にき)に志るさむ

「志るさむ」のは「志」は当て字で「記さむ」ということです。お母さんのおっぱいを飲んでいた子供が乳離れして、父である自分と初めて一緒に寝たんですね。そのことを日記に書いておこう、と歌っている。子どもが少しずつ成長していることへの喜びがしみじみと伝わってくる歌で、これも当時としては珍しい歌なのではないでしょうか。斎藤茂吉の子どもの歌などは、もっと不器用な感じで、あまり愛情が歌の中に表れない。落合直文の歌のほうが時代は前なのに、むしろ素直に歌われている感じがします。

㉓ 父と母といづれがよきと子に問へば父よといひて母をかへりみぬ

お父さんとお母さんのどちらが好きと子どもに聞いたら、今だったらお母さんと即答する子どもが多いと思うんですけれども、当時はやっぱり父がえらかったんですね。家長ですからね。父上です、と答えたんだけれども、後ろにいるお母さんをつい振り返ってしまった。本当はお母さんが好きなので、悪いなあと思っているんですね。子どもの様子が目に浮かぶような、かわいらしい歌です。家族の中でも長幼の序に厳しい時代でしたが、それでもそこから漏れてくる優しさがあって、その一瞬の場面をみごとにとらえています。

それでは最後のパートに入ります。

㉔ わが子をばいくさにやりて里の爺(をぢ)がむすめと二人(ふたり)早苗とるなり

落合直文は、自分は武士の末裔だという思いがあったので、戦争の歌もかなり作っているんですね。「朝夕に手をばはなたぬ筆すてて太刀をとるべき時は来にけり (日清戦役のころ、予備軍の召集をうけて)」といった歌もあります。すぐに帰還しているようですが。国のために戦争は必要だ、という思いは強かったはずです。でも、その一方で、戦争が生み出す苦しみについても、まなざしを向けずにはいられなかった。働き手がいなくなり、おじいさんと娘が農作業をしている様子を、淡々と描いていますが、やはり静かな哀しさは伝わってきます。

㉕ 中川の橋守る爺(をぢ)が数へゐる銭の音さむし夜や更けぬらむ

これは東京都江東区の逆井(さかさい)橋を詠んでいるのではないかと思うんです。明治12年に村が橋を造ったのですが、相当お金がかかったので、明治27年まで通行料を取っていたそうです。その様子を落合直文は見たのではないでしょうか。たぶん貧しいおじいさんなんでしょうね。「銭の音さむし」に、哀感がこもっていると思います。

㉖ 小(ち)さき墓に乳(ちゝ)を志ぼりて手むけたる人影(ひとかげ)さむし冬の夜の月

幼い子どもが死んでしまって、お母さんがおっぱいをしぼってお墓に供えていたんでしょうね。すごくあわれな歌だなと思います。明治時代はまだ医学が発達していなかったので、赤ちゃんのうちに死ぬ子も多かったんでしょう。寒い冬の夜なのに、墓を訪れている母親の寂しい影。それを静かに照らしている月の光。たぶん、知り合いではなくて、たまたま見かけた人なのだと思いますが、他人を思いやる心の深さは感じられます。

他人を歌うというのも、近代短歌になって増えてきた表現だと思うんです。古典和歌では、あまり他人を歌わないんですね。西行など、例外はあるんですけれども。しかし直文は、他人――町でたまたま見かけた人など――を歌っているんです。それは当時としては新しい表現だったんじゃないでしょうか。

国木田独歩に『忘れえぬ人々』(明治31年)という小説があります。旅先で見た人で、自分とは無関係なんだけども、何か忘れられない人がいる、ということ書いているんですね。小さな島の磯で貝か何かを拾っていた人などが挙げられています。そして、こんなことを書いている。「われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬をつたうことがある。」

明治になって、四民平等になりました。それは不十分なものだったとよく言われますが、それでも、自分も他人も、この世界で同じように生きている人間なのだ、という意識はやはり根づいてきたのだと思うのですね。落合直文のこうした歌が国木田独歩の影響を受けているのかどうか、私には分かりません。しかし、橋でお金を数えているおじいさんを見て、この人は自分とは無関係なんだけども、きっと今まで苦労しながら生きてきたんだなと感じる心情は、独歩の『忘れえぬ人々』と共通するものがあると思います。このような、他人を思いやる表現は、近現代を通して短歌の中で広がっていきました。その重要性は、今になってみれば誰しも認めることでしょう。ただ、落合直文がそれを最も早い段階で気づいて、他人の姿を具体的に描写するという優れた方法で表現していたことは、忘れてはならないことだと思います。

今日のタイトルは、「『萩之家歌集』を生き生きと読む」というものです。「生き生きと読む」というのは日本語としてちょっと変な感じがするかもしれませんね。どういうことかというと、落合直文は顕彰会もありますし、とてもえらい人で、すごく遠い人と思ってしまいやすいんですよ。自分とは次元の違う、立派な歌なんだ、というふうに思い込んでしまいやすい。しかし、そういう先入観なしに歌を読んでいくと、とても身近に感じられる部分はあると思うんですよね。今日お話ししましたように、落合直文も、明治時代の新しい技術や考え方を、短歌の中で必死に表現しようとしていた人でした。私たちと同じように〈何もない時間〉を感じたり、夕立に濡れる洗濯物を慌てて取り入れたりしていました。そういうところを見つけて読むのが、すごく大事だと思うんですよ。歌集って読むのが退屈だと感じる人も多いと思います。それは当然なのですけど、読み慣れてくると、作者の生活や感情がなまなましく伝わってくるときがある。この人も自分と同じような人間なんだなと感じるときが出てくるんですね。それを大切にして読むことが「生き生きと読む」ことだと思うんです。

ただ、一世紀以上前だと生活環境が全然違うんですね。ようやく東北本線ができて、家で牛乳を飲むようになったとか、そういう時代です。そんな暮らしのことを想像して読むことも重要だと思います。つい私たちは自分の生きている時代が絶対だと思ってしまい、それ以前の世界はなかなか想像できないんですね。若い人だと、携帯電話がなかった時代が、感覚的になかなか想像できないみたいですね。時代はどんどん変わってきますので、昔のことはなかなか想像しにくくなっていきますが、当時のことを調べて読むと、歌はもっとおもしろくなりますね。歴史を調べて読むと、文学はさらに生き生きと感じられます。

ですから、落合直文の歌を読むときも、現代の目で見ておもしろいなと思うことも大事だし、明治時代を想像して、これは当時新しかった表現じゃないかなと考えていくことも、すごく重要ですね。現代の目で読むことと、当時の時代に自分の身を置いて読むこと。その両方が大切なんです。二つの視点で読むこと、複眼的に読む、と言い換えてもいいでしょうが、そうすることによって、短歌は生き生きとした姿を現してくるのだと思います。

今回、『萩之家歌集』を読んで、私はすごくおもしろかったですね。ですから、ぜひ、まだ読んでいない方は読んでみてください。私が引いた歌以外にも、おもしろい歌はいくつもあると思うので、自分の目で発見してほしいです。他人が良いという歌を、「ああ、いいな」と感じるだけじゃなくて、自分の目で、自分にとって大切な歌を見つけることが大事なんです。受動的な読みではなく、能動的な読みをする、ということでしょうか。「生き生きとした読み」は、そこから生まれてくるものだと思います。

ご清聴、どうもありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?