【長崎】精霊流し
お盆だ。
長崎のお盆は外から見るとけたたましく、まさか死者を弔う儀式なのかと疑いたくなるような賑やかさだ。
電飾のついた四mにも及ぶ精霊船が四車線塞いだ道路のまんなかを進む様子は圧巻だし、そのまわりでは爆竹が箱ごと燃やされている。船が進んだ後は霧のような煙と爆竹の滓だらけだ。それを清掃する深夜バイトまである。
かつては精霊船を海に流していたが、今では海辺に持っていくだけで、流し場と呼ばれる市が設置した集積場に集められる。そこで解体して、処分される。それが毎年八月一五日。
今日は一四日。それでも気の早いひとなのか、予行練習か、外から爆竹の音がする。
国内の爆竹消費量一位は伊達では無い。前日から気合い十分だ。
わたしはひとり、不思議な形の花を眺めながら部屋で爆竹の音を聞く。
精霊流しは初盆の人が船を流す。
親戚が長崎にいないため、自分で精霊船を作る側に回ったことは無い。だが大学の時お世話になっていた教授の猫ちゃんは死んでしまったとき、小さな精霊船が出された。そのとき、なかなか無い経験だから一緒に船を流してみないかと教授が誘って下さったのだ。ありがたく参加させていただいた。
あんまりくわしく覚えていないが、小さい船である「こも」だったかもしれない。教授が小脇に抱えられるサイズの船には可愛らしい装飾が施されていた。
その日は霧雨が降っていて、傘はささなくてもいけれど眼鏡は見えない、そんな天気だった。
教授のマンションに集まって、みなで船やら荷物やらを持って練り歩いた。
道は煙と音に満ちていた。
そこらじゅうに撒かれた爆竹が煙をもうもうと上げて視界をみっちりと埋め、見えたと思ったら知らない人の背中で、視界にチラチラうつる教授の端切れを頼りに前に前にすすむ。
蒸し暑い。隣の人の声も聞こえない。
爆竹はバチバチと大きな音を出しては急な静寂を持ってきて、粛々と列は歩む。
塞がれた視界と耳は、かえって自分のなかにぽかりと空白を生んだ。
わたしは会えずじまいだった猫ちゃんと、それを愛した教授のことを考えてみた。考えて、それから無心になった。
とにかく歩いた。
曇り空と煙に境は無く、ただ肌を霧雨がしっとりと濡らしていく。灰色。そこにでっかい船の電飾。ぽんわりと白を貫く。
やっとこさたどり着いた流し場に、高く積まれたこも置き場。そこにそっと教授は船を置いた。
汗みずくの学生たちと教授はそこで解散した。もう夜になっていた。
今日も夜は更けていく。
社会人になった今、街中のマンションに引っ越してきたからか、昨日今日とひたすら爆竹の音がする。気が早い。それから口笛のような花火。ロケット花火でもしているのだろうか。
今はただ、その音がするなと思って、この文章をポチポチと打っている。
タイプ音と爆竹、子どものはしゃぐ声。
たまにふと、あの灰色にぽかりと包まれた行列を思い出す。精霊流しの内側。
けたたましく賑やかな長崎の盆。
それは確かに弔いの儀式なのだと、記憶に鮮やかな灰色がぷかりと心に浮いてくる。
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