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町に人が集まるのではなく、人の集まるところが町になる。そのことを忘れないために。
初めましての方も、お久しぶりの方もありがとうございます。
青嵜(あおさき)です。
7月1日から、仕事も生活も変わって、夫婦のコミュニケーションも遠隔になり、全てが新しく変わった鹿児島での生活も早1ヶ月。
これから色々なことが進み始める今だから、ここまでの道のりを振り返っておきたくて始めたnoteも3話目です。
さて、結果的に、2021年の春に九州移住ドラフト会議のメンバーと共に鹿児島県のさつま町を訪れた僕は、その約1年後に移住することになります。
当初、ゆかりのない地域に移住することはハードルが高く、ましてや家族の仕事も東京、そしてこれまでの人生もあり、二拠点を維持できるほど経済的な余裕があるわけではない。
チャレンジと言えば聞こえがいいけど、地域おこし協力隊の制度上、長くても3年後に契約が終了するので、その後の不安ももちろん大きくて、それは今も変わらずです。
ただ、その当時とは少し違います。
実際に町を訪れ、今もお世話になっている役場の方との対話を1年間じっくりと時間をかけていただき、双方の理解や、地域おこし協力隊サポーターの方による受け入れ地域の勉強会を行っていることを知り、さらに、想いのある事業者の方ともお会いする機会と、家族との対話を繰り返すことで、当初、漠然と感じていたリスクを少し違う視点から見つめることができるようになりました。
何も見えず、知らずでは、不安を感じるものですが、実際に会話を通して、知識を培うことで、見えてくる景色があります。
その景色には未来の姿も入っていたりします。
僕の場合、その結果は前述のとおりでした。
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地域おこし協力隊の制度を活用する上では住所を移さなければならず、ゼロイチでいうと結果的には移住を選択した訳なので、グラデーションを持った地域との関わりを模索している方にとっては、あまり参考にならない結果のように思います。
ただ、暮らし始めて1カ月。
全く地域のことを知らなかった僕が恵まれていると感じるのは、
①移住前の対話に時間をかけていただけたこと
②職場を含めて地域の方にとても助けていただいていること
③公的機関に席をおかせてもらっていること
が特に大きいように感じています。
もちろん、それに限らない話だとは思いますが、"誰に対して"という点を含めて、要は信頼の話で、これはどこに住んでも一緒ですよね。
それは関わり方や場所の問題ではないように思っています。
もちろん、僕の場合、その道筋を作っていただいたのは周りの方々のおかげなのですが。
さて、つらつらと書きましたが、最後に"お墓"の話をしたいと思います。
今回の鹿児島移住にあたって、僕の中で非常に大きな存在だったのが"お墓"でした。
僕らのお墓はさつま町に近い別の地域にあるのですが、そのお墓の近くには小さな神社があって、妻曰く、昔はその神社で夏祭りが開催されて地域の子どもたちが集まっていたそうです。
ただ、今となっては、夏祭り等の地域の催し物はその神社で開催されていないようで、訪れてみると最低限の管理のみなされているような状態でした。
神社があることで、夏祭りの思い出が息づいているとしたら、神社がなくなることで誰かの思い出も消えてしまうかもしれない、そんなことを考えました。
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それは、僕にとってお墓も同じで、故人のことを思い出したり、仮に会ったことがない故人であっても、その人が"かつて生きていた証"があって、その石が思い出や歴史を呼び起こすスイッチの役割になると思っているからです。
でも、そのお墓のある土地に人が集まらなくなり、町がなくなってしまったら、きっとそのお墓自体が廃れてしまって、そこに刻まれている人は、喜怒哀楽をもって生きていたはずなのに、"無い"ことになってしまう。
それはとても、とても悲しいことです。
"町"には色々な機能があると思います。
その中に、人が生きていた証も含まれるなら、持続可能な町を作ることは、人を想い敬い尊ぶことにもなると思っています。
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課題が多いという言葉を耳にする機会は多いですが、それでも誤解を恐れず言うならば、
循環する優しい人の繋がり。そんな町を作ろうと、それぞれの生業を糧に集まっている人が、この町にはいる。
それが、僕が仕事を変えて、東京との家族と二拠点生活での生活を模索し、この町に来た理由です。
今は行政単位で町がありますが、原初の時代は、きっかけは何であれ、人が集まったところが町になったのだと思います。
それが人の魅力によるものであれば、尚のこと素敵なことだと思います。
これから色々なことが進み始めるだろう今だからこそ、その本質を忘れないように記しておきたいと思いました。
いつの日か振返れるように。