No,13「魔物たちの集い」
『――――これが最後の仕事になる』
日記の最後のページには弱々しくなった文字で、そう綴られていた。
「ねぇクロ、ポストにこんなのが届いてたんだけど」
朝の買い物を終えて帰宅したわたしは郵便受けに入っていた物を見つけると、慌てて二階に駆け上がり、リビングでくつろいでいるクロに向かって声をかけた。
「これって例のアレじゃない? 前に言ってた……」
掲げてみせたのは四角形の赤い封筒。
「ああ、来たか」
クロは一言つぶやくと、愛らしい黒猫の姿から手足のすらりとした青年の姿へと変化して立ち上がり、それを受け取った。
美しいリーフ柄の模様が浮き出ている封筒の表書きに住所はなく、魔道具店夢乃屋様の文字だけが黒インクで綴れられている。裏側には金の封蠟(シーリングワックス)。シールやスタンプではなく、ちゃんとした蠟に家紋のような文様が刻まれている本格的なやつだ。差出人は「魔道具店組合連合会本部」とある。
「うん、組合からの集会のお知らせだね」
「年に一度参加しなきゃいけないって言ってたやつだよね」
参加しないとまずいことになるらしい、というニュアンスだけは店に来た当初に伝えられていたものの、どういったことをするのか具体的にはさっぱりだ。
「わたし何をすればいい? 報告書とか作成しないとまずい?」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
クロはいささかテンパリ気味のわたしに苦笑しつつ、ペーパーナイフで封筒を開け、中から一枚のカードを取り出してみせた。
「ほら、この招待状を持ってパーティーに参加するだけだから」
中のカードにも美しい模様が付いていてキラキラしている。
記されている開催日は今月の31日。明後日だ。
「……それだけ? 他には?」
「全然。まぁ会場でいろんな人に挨拶はするけどね。ほら、こっちの世界の人が年始に集まって今年もよろしくって感じで挨拶して回るでしょ。あんな感じだと思えばいいよ」
「ホントに?」
「本当。ボクが琴音に嘘ついたことある?」
「……ない」
「でしょ」
やさしく微笑まれたら、もうそれ以上は何も言い返せない。
若干不安ではあるけれど、腹をくくるしかあるまい。お店にもいろいろなお客さんが来店しているのだから、それと同じだと思えば…………たぶん大丈夫。おそらく。
あと一つ、気になることと言えば。
「……服装は? どんな格好で行ったらいいかな?」
「んー、ドレスコードは特にないけど」
「でも年始の挨拶みたいなものだとすると、やっぱりきちんとした格好でないとまずいでしょ。スーツ……でいいのかなぁ……」
「そうだねぇ。貴族階級の人たちはパーティードレスだったりするけど」
「無理無理ムリ。さすがにドレスは無理」
「別に気にしなくていいんじゃない? 平服に魔術師のローブを羽織ってるだけの人もいるよ。前の店主もだいたいそんな感じだったし」
「えぇ!?」
あっさり言うなぁ。あなたはそれでいいかもしれないけど、勝手が分からないこっちにとっては結構重要なことなんですけど。そんな不満が全身から滲み出ていたのだろう。
「もし気になるなら、奥の納戸を開けてみるといいよ。前の店主たちが残していった荷物がそこに全部入ってるから、ドレスとかローブも少しはあるんじゃないかな」
クロは廊下の突き当り、わたしが寝室に使っている部屋とは反対側にある扉を指さした。余分な荷物をしまってある場所だと聞いて、これまで一度も触ったことのなかった扉だ。
「………………」
たとえドレスが残っていたとしてもサイズが合うかどうか分かんないし、そもそも他人が残していった衣服を勝手に着れないでしょ、とは思ったんだけど。まぁ参考程度にはなるか。それに、どういった品が残っているのか多少興味がある。
「分かった。じゃあ、ちょっとだけ覗かせてもらうね」
そうして足を踏み入れた納戸で、わたしは何枚かのドレスや上着、いかにも魔法使いが羽織っていそうなローブと一緒に一冊の古びた日記帳を見つけたのだ。
それは先々代の店主を務めた時枝雪比古という人の日記だった。
◆ ◆ ◆
巨大な月影を背負って丘の上に聳え立つ西洋風の古城。尖った屋根の周辺で羽ばたく蝙蝠たち。ペガサスが牽く空飛ぶ馬車が夜空を翔け、箒に乗った魔女たちが次々に城へと舞い降りていく。
ハロウィンの夜にこれほど似合う光景があるだろうか。
あまりにも「そのもの」すぎて異世界というよりイメージの世界、物語の中にでも飛び込んでしまったかのようだ。
「魔物や魔女がハロウィーンの夜にお城に集まるなんてイメージぴったりなのに、移動は馬車じゃないんだね」
城へと続く石畳の長い道を歩きながらぼそりとこぼした。歩きにくいのよ、これが。最近あまり履かなくなっていたヒールだと特に。
「そりゃまぁ、ボクらは馬車を持っていないからね」
「……確かに」
おめかしした獣人を乗せた馬車、いや、こちらは大きなネズミが引っ張っているから鼠車と呼ぶべきか、頷くわたしの視界の端をガラガラと音を立てて走り去っていく。
10月31日の夜――――わたしたちはこの日、いつもより早めに店を閉め、着替えを済ませてから招待状を手にして店の外に出た。
一歩外へと踏み出した途端、視界に飛び込んできたカラフルな街並み。宙を舞ういくつものランタン。カボチャはどこにも見当たらないけど、お祭りらしく通りにある家や店のドア、あちこちの屋根や軒、垣根にも飾り付けが施されていて、街角の路地では着飾ったネズミや鶏、烏やヤギ頭の人たちが輪になって躍っている。
そこはもうわたしが暮らしている町の景色ではなく、さまざまな魔物たちが行き交う見知らぬ異世界だった。店のドアが複数の異世界と繋がっていると知ってはいても、普段わたしは店の外に出ないので初めての体験だ。レンガ造りの家が建ち並ぶ景色は一見するとヨーロッパの古い町並みのようにも思えるけれど、そうでないことは明らかだった。
月明かりとランタンの灯が足下を照らす中、緩やかな上り坂を徒歩で、馬で、馬車で進む人々。服装は皆てんでバラバラ。中世風のドレスに身を包んでいる紳士淑女もいれば、未来的なスーツに仮面を付けた人、魔法使いの帽子とローブで箒に跨っている人、民族衣装のようなものを纏った獣人、軍服姿の双角の悪魔たち。店に来る客たちと同様に個性豊かだ。
(……ほんと、魔界百鬼夜行って感じ……)
『そこには人ならざる者もおり、また、服装についても西洋風とも東洋風とも云い切れぬ複雑で目新しいものも多く、まったくもって摩訶不思議な空間であった。魔界に至る百鬼夜行、その列に加わり城へと赴く足は緊張にいささか震えた。』
雪比古さんが残した日記に書かれていた通りの光景だ。
あの日記には彼が店で見聞きした日々の出来事はもちろん、年に一度の集会でのようすも詳細に記されていて、とても参考になった。結果として、服装はさほど気にする必要はないだろうと思い、わたしは会社勤めをしていた頃に着ていたロング丈のスカートとジャケットのセットアップを引っ張り出した。クロは毎回同じらしく、黒の礼服に白いベストを着用している。一応どちらもそれなりの格好だし、このようすなら特に目立つこともないだろう。
『魔道具と呼ばれる不思議な器や機械などを扱うこの店は、時空を翔ける一族が始めた極めて稀な商いなのだそうだ。魔力の道がさまざまな世界と繋がる場所で扉が開く。そこに店を建てたのだ、と彼は云った。
年に一度、収穫祭の夜に集うのはどの世界からも扉が繋がりやすく、多くの者が一堂に会することができるから、らしい。』
こんな情報、わたしは何も聞いていなかったなぁ。もしかするとこの集会、オーナー一族に会えちゃったりするのだろうか。
城に近づくにつれ緊張も高まってきた。城門前の広場では大きなかがり火が焚かれていて、輪になった人々がそれを取り囲んでいる。
わたしはクロに手を引かれてその横を通り過ぎ、ヤギ頭の門番に招待状を見せて城の中へと入っていった。
(おお、中は普通に豪勢なお城……!)
中世の古城を模したような建物の内側は天井がとても高い。豪勢なシャンデリアの灯りが金の装飾を照らし、キラキラと輝きを放っている。客人たちが集まる広間の壁にはたくさんの鏡が嵌め込まれ、談笑したりダンスを踊る人々を映し出していて、まるで万華鏡のようだ。ちょっとクラクラする。
「おや、久しぶりだねぇ」
「これは男爵、ご無沙汰しております」
不意に飲み物を手にした長い顎鬚の老紳士に声をかけられ、クロがお辞儀を返した。
「噂で聞いたよ。風の魔女から店を引き継いだ人間というのはこちらの女性かね」
「は、はい。以後よろしくお見知りおきください」
風の魔女というのは、おそらくわたしの前に店主をしていたあのマダムのことだろう。わたしはギクシャクしつつも何とか挨拶を交わした。
『集会での注意点その一、不用意に自分の名を口にしないこと。』
「本当だ、微塵も魔力がないねぇ」
男爵はしげしげとわたしを見つめて感嘆したようにこぼした。
「まぁ半端に強いよりは余程よかろうて。というより、むしろこれは稀有な素質と言うべきかな」
独り言のようなつぶやきに、クロが頷き返す。
「ボクもそう思っています」
自分のことを話されているのに口を挟めないので、どうにも居心地が悪い。
次に挨拶したのは見覚えのある顔だった。わたしが店に出て最初にやってきた客、魔王軍の将軍をしているというビフロンス伯爵だ。
「先日少し面白い品を手に入れたのでな、近いうちに使いを出そうと思っている。良しなに頼むぞ」
「畏まりました」
他にもこれまでに店で見かけたことのある客が何人かいて、これは店主どの、お久しぶりなどと声をかけられた。
「組合の集まりっていうからもっと少人数かと思ったのに、お客さんたちも結構来てるんだね」
「彼らは他の店舗の流通に関わっていたり、一部商品を納入する業者だったり、買い取り品を捌く二次受けの店舗を任されていたりするんだ。魔道具に関する業務に携わっているから全員組合にも参加している。ビフロンス伯爵のように顧問として運営に関与している人物も含まれるけどね」
「そ、そうですか……」
何というか、思ったよりちゃんと組織立っているのが逆に違和感あるわ。
「店舗数も今では各世界にかなりの数があるんだよ。まぁその中でも、うちの店は特殊だけどね」
「特殊って!?」
「繋がってる世界の数が飛びぬけて多いんだ。普通はせいぜい二つか三つだから」
「へぇ……」
それがどう凄いのか今ひとつピンとこなかったけど、追及するのは止めておいた。それよりテーブルに並んでいる料理がやたら美味しそうで、しばらくの間空腹を満たすことに専念したかったのだ。
「クロ、これめっっっちゃ美味しいよ!」
「ハイハイ」
「どんな調味料使ってるんだろう。気になるぅ」
「それはいいけど、あんまり食べ過ぎるとまた太るよ」
「またって何よ、またって。べつに太ったりしてませーん」
「先月こっそりダイエットしてたじゃないか」
「うっ……」
「あれは夏の間、アイスを食べすぎたせいだよね」
「…………」
何でもお見通しの猫め。
そして好きなだけ飲み食いすれば、自然とトイレにも行きたくなるわけで。その後わたしは一人席を外して廊下に出た。そう、この城にもちゃんとあるのですよトイレが。ホテルのラウンジの中にあるようなやつが。魔人や悪魔、魔法使いの皆さんも普通に調理されたものを食べるし、トイレに行って用を足すんですねぇ。
(なんか不思議……)
奇妙な感慨に浸りながらトイレから出たところで、一人の男性に話しかけられた。肩まである金髪が美しい、白いスーツの青年だ。
「さっき君と一緒にいた人が向こうのテラスで組合の責任者と話しているのを見かけたよ」
「えっ、そうなんですか!?」
「君も行った方がいいんじゃない?」
「ええ、でも……」
「早くした方がいいよ。大事な話かもしれないし」
渋るわたしの手をいかなりつかんで、その人はホールの奥へと歩き出した。かなり強引だ。力も強くて振り解けない。
「ところで君、魔術をまるきり使えないって本当かい?」
「え、ええ」
「じゃあどうして魔道具店なんかで働こうと思ったの」
「それはまぁ、成り行きと言いますか……」
グイグイ引っ張られながらついていくわたしをチラリと横目で見下ろした青年は「ふぅん。やっぱり人間って変わってるなぁ」と口の中でつぶやくと、さらに歩調を速めた。そしてバルコニーまで来るとグイッと腕を引き寄せ、わたしに顔を近づけてきた。
「僕は変わったものが大好きでねぇ」
予想通り、その場所には誰の姿もなかった。
「君、僕のところへおいでよ。楽しい遊びをしよう?」
にっこり微笑んでるのに、美しい造作なのに、その笑顔のなんと凶悪なことか。
(ほんっと、どこの世界にもヤバい奴っているんだなぁ)
「せっかくですけどお断りします!」
わたしは歩いてる間にポケットから取り出して掌中に握っていた小瓶の蓋を指で開け、中身の粉をそいつの顔に向かって思いきりぶちまけた。
『集会での注意点その二、羽根のある一族には気をつけること。鳥の翼を持つ者の中には人の肉を好む者もおり、昆虫の羽根を持つ者には無邪気な悪意を抱く者がいる。集会の場で他者に危害を加えようとする行為は厳禁だが、決まりを守れぬ堪え性のない輩はどこにでもいるものなので、万が一のために魔除けの粉を持っておくと良い。』
「ゲホッ、ゴホゴホッ! なんだこれ……臭い!」
「わー、ホントに効くんだこの粉」
粉を吸い込んで盛大に顔をしかめ、噎せている男の背中にこれまで見えていなかった薄い羽根が現れた。魔法で見えないようにしていたのかもしれないけど、残念ながら鏡には映っていたのだ。
「多少臭いはキツイけど体にいいのよ、これ」
日記を参考にして用意しておいたのはドクダミ草を粉末状にしたものだ。彼らはこの独特の臭気が大の苦手らしい。今回は時間がなかったので売っている茶葉を砕いただけだけど、ちゃんと効果はあったようだ。ありがたい。
(そういえばドラキュラはニンニクが嫌いって説もあったし、臭い物って魔除けに使われがちなのかしら)
不埒者にダメージを与えられたので、ひとまずほっと安堵の息をつく。
「お見事。ボクの出る幕はなかったね」
背後から声がしたので振り向くと、クロが小さく拍手をしながら立っていた。もしかすると気づいて追いかけてきてくれたのかも。その傍らにはドレス姿の美しい女性が一人。こっちは見覚えのない人だ。背が高く細身で、癖のないさらりとした長いプラチナブロンドの髪は足元近くまである。
二人の姿を目にしてさすがに不利だと悟ったのか、羽根男はじんわり涙を滲ませながら
「まだ何もしてないのにっ!」
小さな子供の負け惜しみのようなセリフを残して飛び去っていった。
女性の視線がその行方を追う。
「やれやれ……あの種族はどうも子供じみているというか、悪意だけはないのだが、ちっとも言うことを聞かんな」
きれいな女の人なのに、お殿様みたいな喋り方をする人だなと思った。
「失礼した。責任者として、あれの管理者には釘を刺しておこう。気分を害されたであろうが許されよ」
「い、いえ、そんな……」
たいしたことない、わけではないかもしれないので釘を刺してもらえるのはありがたいけど……責任者ってことは…………創業者一族! あのホラーハウスモドキ店舗のオーナー様ってこと!?
「あ、あの、初めまして。少し前からこの子のいる店で働いている者です」
視線でクロを示して、会釈をする。
「ああ、聞いている。そういえばおまえ、また名前をもらったそうだな」
「クロといいます。良い名でしょう?」
女性が問うと、クロは自慢げな笑みを覗かせた。
「……おまえは名をくれる主が好きだな」
「そうでしょうか。他の主も好きでしたよ、もちろん」
「……ふむ。まぁ、そういうことにしておこう」
ふと微笑んだ女性の瞳を見て、宇宙の色だな、とわたしは思った。ああ、そうだ。肌の色も長い髪も全部色素が薄くて女神像そのものといった姿なのに、瞳だけがまるで深淵を映したように昏く深い。
「以前の店主…………雪比古と言ったか、あの者には感謝しているのだ。あの店でしか繋がれぬ世界もあるからな。そなたもよろしく頼む」
「は、はい……」
わたしは恐縮して頭を下げた。
大きすぎる月が明るく彼女を照らし、濃い影を際立たせていた。
◆ ◆ ◆
『一八九九年十二月某日
僕は自分の頭がどうかしてしまったのではないかと思った。不思議な店に迷い込んだのは、夜の闇が見せた幻ではないだろうか、と。けれども翌朝も店はちゃんとあって、僕は再び招き入れられた。
猫なのに人の言葉を解する不思議な彼と、友達になった。
「この店の主になってくれないか」
彼の言葉にはそりゃあ吃驚はしたけれども、特に断る理由もなかったので承諾した。ただし、他人には秘密である。ここは選ばれた者のみが訪れることができる不思議な店なのだから。』
B6サイズくらいの古い日記帳には、戸惑いとほんの少しの誇らしさ、抑えきれない好奇心などが繊細で丁寧な文字によって綴られている。店主を務めることになって、誰にも言えない話を書き留めるために始めた日記のようだ。
納戸で日記を見つけたあと、わたしは店番をしながら、その古い日記を少しずつ読み込んでいった。
『一九〇〇年二月三日
今日はずいぶんとめずらしいお客様がいらして、つい慌ててしまったのだけれど、彼が僕を助けてくれた。僕は彼のことを「ソラくん」と呼ぶことにした。黒猫の姿のとき一際目を惹く美しい天色(あまいろ)の瞳が、人の姿になったときも同じ色だったからだ。』
「……ソラくん。これ、クロのことだよね」
確かに、うちの店にいる不思議な黒猫はとてもきれいな青い目をしている。
「そういえば人の姿になったときも目の色は青かったっけ」
肌や髪の色は日本人として違和感なく変化しているのに、瞳だけは濃い空の色のままなのだ。でも最初目にしたときは人の姿になれることに驚きすぎて、特に気にしていなかった。肌は黒くないのに目は元のままなのか程度のことしか考えていなかったのだ、わたしときたら。
「なるほど……天(そら)の色の瞳だからソラくん、か。全然思いつきもしなかったわ。これを書いた人はずいぶんロマンチストだったのね」
「ああ、雪比古は物静かで詩人のような感性の持ち主だったからね」
わたしには無いなぁ、詩人のような繊細な感性とセンス。
「そりゃあ、わたしだってクロは見たまんますぎるかなって、ちょっと思ったけどさ」
猫の名前なんてそんなもんでしょ。むしろイカスミとかにしなくてよかったなって安堵してるところですよ。
「琴音は素直で率直なところがいいんだよ。自分にも他人にも嘘がつけない不器用さも含めて、ね」
「それはどうも。今日もシンプルに生きております」
全然褒められてないけど、素直さが取り柄だと言われたので宥められておくことにした。
クロが言った雪比古――――時枝雪比古は四十年以上にわたってここの店主を務めた人らしい。1900年ということはまだ明治時代だ。日露戦争が始まる前だろうか。
「彼は雪の夜にふらりと店に迷い込んできた客でね。こちらの世界の人にしてはずいぶんと魔力が高かった。でも強い魔道具に惑わされるようすもなかったし、名前の通り、降り積もる雪のように静かな人だったよ。ちょうど店主が不在の時期だったから、これはもう運命だろうと思って声をかけたんだ」
「へぇ……」
やはりわたしとは真逆のタイプだ。
明治十年に旧家の次男坊として生まれた彼は、体が弱かったせいか幼いうちに分家へと養子に出されたらしい。
「養父が彫金の職人だったそうで、彼はこの店でも店主としての仕事をしながら彫金の細工をしていたんだ」
「えっ、ここで!?」
「まぁ大概は暇だからね」
確かに。多少波はあるものの、わりと暇な時間が多い。だから今もこうして故人の日記を読んでおしゃべりできているわけで。
「そういうのも有りなのか……勤務時間中に職場で副業はどうかと思うけど、勤め先公認でダブルワークってなんかイマドキっぽいね」
「何言ってるのさ。逆に朝から晩まで職場で時間に追われて働くスタイルが一般的になるのは昭和に入る少し前からだから、せいぜい百年足らずだよ」
「そうなの!?」
「サラリーマンが増えたのは大正の終わりだからね」
日記を読んでいくと、話の通り雪比古さんはここで店番をしながら彫金で装飾品の金具をコツコツと作っていたようだ。
『一九〇二年四月十日
いつものように店のカウンターで端午の節句の兜飾りに使う金具を作っていたら、客にそれも売ってくれと云われてしまった。けれど、この店で出す品ではないからと断った。僕には魔道具など作れない。もし作れたら面白いだろうなぁと思うけれども、そんな才などあるはずがない。ところがソラくんが「作ってみるかい」などと云いだした。
さて、どうしたものか。少しばかり心が躍ってしまう。』
「魔道具制作までやってたの?」
「最初はちっとも成功しなかったけどね。彼は諦めなかった。作品を商品として店に並べるようになったのは十年以上経ってからだよ」
「あ、ほんとだ。1914年に初めて店頭に自分の作品を出すことができたって書いてある」
パラパラと日記を捲っていた手を、ふと止めた。
「あれ!? 1914年って……」
「第一次世界大戦が始まった年だ。大正三年だよ」
授業で習った記憶がうっすらあるけど、近代史は苦手なのであまりピンとこない。
「そして、その四年後に彼は息子を亡くしている」
「へぇ、息子さんがいたのね」
そりゃ結婚しててもおかしくないか、と思いかけて、ふと疑問が口をついて出た。
「家族みんながここの二階で暮らしてたの?」
わたしは今現在ありがたく店の二階を住居として使わせてもらっている。どうやら前の主もそうしていたようだし、家族三人でも暮らせなくはないけど、とにかくここは普通ではないから子育てには不向きというか、いろいろと不都合があるのではと危ぶんだのだ。すると案の定、クロは首を横に振った。
「いいや、雪比古は結婚していなかったし、ここの二階に住んではいなかったよ。養父が遺した家から通ってきていた」
「あれ、じゃあ息子っていうのは」
「幼馴染みで親友だった男が日露戦争で戦死したんだ。母親も早逝したらしくて、その忘れ形見を彼は自分の子のように育てていたのさ。でも、その子供も急な病で亡くなってしまった」
「まだ若かったんじゃない?」
「うん、雪比古がちょうど四十歳、息子の正人は十八になったばかりだった。その病は高齢者よりも若い人がたくさん亡くなったからね。この国だけで三十九万人が死亡したと言われているんだ」
「パンデミックじゃん! ……ひょっとしてスペイン風邪?」
「正解」
過去の歴史として目にした記事を、まさかこんなに身近に感じる日が来ようとは。
「雪比古はずいぶんと気落ちしていたけれど、それでも魔に取り憑かれたり黒魔術に傾倒するようなことはなかった。代わりに、とてもきれいな魔道具を作ったんだよ。……ほら、そこの棚の三段目に置いてあるだろう?」
クロに促されて探しに行くと、蓋に細やかな金の細工が施された木製の小箱が目に飛び込んできた。
「これって確か……」
「思い浮かべた人の声を聴くことができるオルゴール」
人の姿になったクロがその箱を手にして、横に付いた把手をそっと回す。
クルクル、クルクル。
そうして蓋を開け、やさしい表情で目を閉じる。
(…………ああ、ちょっと妬けちゃうなぁ……)
きっと雪比古さんの声を聴いているのだ。
わたしには聞こえてこないけれど。クロの耳には届いているのだろう。
「素敵な魔道具だね」
「うん」
クロは蓋を閉じると、大事そうにその小箱を棚に戻した。
「雪比古は太平洋戦争が始まった翌年の秋に亡くなったんだ。前から病を患っていたんだけど、集会だけは無理して出てくれてね。でも、そのあと寝付いてしまって、冬を待たずに逝ってしまった」
「そんなに集会って大事なものなの?」
「それもあるけど……雪比古は後継者を探してくれていたんだよ。普通の人にはこの店の主は務まらないからね」
「そっか……」
世界中が戦争で荒んでいた暗い時代。後を継いでくれるはずの人も彼はすでに亡くしていた。だから他の場所では会えない人に会って頼み事をするために、病を押して出かけたのか。
「キミが会った前の主、彼女は本来一ヶ所にそう長く留まるタイプじゃないんだ。ただ、うちの店にはよく来ていたから雪比古とは馴染みでね。買い物するだけじゃなく、たまには一緒にお茶を飲むぐらい仲がよかった。だから彼の頼みを聞いてくれたのさ」
「そうだったんだ……」
『一九四二年十月三十一日
おそらく、これが最後の仕事になる。僕ができることはやらなくてはならない。ツテと言えるほど確固たる自信はないが、彼女ならば引き受けてくれるかもしれない。もし彼女があの場に来ていなかったら、会えなかったらどうなるか分からないが。だとしても諦めるわけにはいかないのだ。
ここはソラくんの大事な居場所なのだから。僕が守らなければ。』
日記の最後のページはインクの文字が少しだけ滲んでいる。
涙の痕かな、と思った。
「ねぇクロ、わたしもソラくんって呼んだ方がいい?」
「どうして?」
「いやぁ、だって……そっちの名前の方が好きかなって」
「ボクは琴音がくれた名前、気に入ってるよ。琴音と一緒にいる間はその名前がいいな」
「……そう」
わたしに不思議な運命をもたらした迷い猫。黒猫のクロ。
そうね、あなたとわたしの物語はこの名前から始まったんだものね。
「じゃあ今後ともよろしく、クロ」
「うん。こちらこそ」
雪比古さん、あなたが遺したもの、どれだけきちんと守れるか分からないけど、わたしはわたしなりに楽しみながらこの店での日々を重ねていきます。
どうか見守っていてね。
心の中でそうつぶやいて、わたしは静かに日記を閉じた。