無知と知った先の選択について
無知
あんまり耳障りの良い言葉ではない。
正確な意味が知りたくて、辞典で調べてみる。
無知(むち)は、知識のないこと。または知恵のないこと。
わたしは無知だと思われるの嫌い。
どきっとする。
ただ、無知にどきっとするわたしは、無知は悪いことだって思いこんでる。
もしかしたら無知って別に悪いものじゃないのかもしれない。
無知ってなんだろう。。
話は変わり、ひょんなことから神性や人間の生き方についてのブログに出会った。ブログの著者の経歴を聞くとどうやらホメオパシーのお医者さまのようだ。
何気なく読んでいる中で、無知についての記述を見つける。それがなんだか深く自分の心にすっとはいってきた。
無知とは、
神の意識を忘れてしまった人間です。 無知であるからこそ、
自我が増幅し、
物質欲が強まり、
地上の出来事に執着してしまうのです。
聖者ヴィヤーサが、
王に視力を与えるとの申し出を断りました。
これは無知な状態の人は、
無知なままでいたいという低次の自己が持つ願望の現れです。
無知であれば、
義務や責任を放棄して、
欲望のままに生きることに甘んじていられるからです。
これは、
輪廻転生から抜け出ることのできない人の性質を象徴しています。
無知
引用した文に従えば、わたしは今もそして、明日もどこかしら無知を抱えている。
無知という言葉だけ聞くと、嫌だなって感情が伴ったけれど、無知であることは自明で、嫌う必要がないことなんだなって思う。
無知であることを知り、知ってる状態を一つずつ広げていく。そんなことをしていこうと思った。
神の意識を広げていくためにも。
お氣持ちが素敵だわ