学校飼育に対するギモン

ここ数日、小学校における学校飼育と情操教育について考えています。

学校飼育といえばウサギ、というイメージは長い間わたしたちの固定概念として定着していますが、実は学校でのウサギの飼育がその生態を大きく無視した悲惨な現状だということを知らない人があまりにも多いのです。

(↑写真はイメージです)

かくいうわたしも、ほんとうに知らなかったので驚くばかりでした。

「え?なにがいけないの?」
と疑問に思う方がほとんどかもしれませんがひとつ例をあげると、ウサギが過ごすための適温は20℃〜25℃といわれています。わりと涼しめですよね。人間なら私なんかはクーラーは28℃設定です。真夏に野外で飼育されているうさぎ小屋の中は、35℃の気温下であれば室内の体感温度はそれ以上になってるはずですから、これだけでもいかにウサギにとって過酷な環境であるかわかっていただけると思います。

全国でもめずらしいウサギの保護や正しい飼育の啓発を行う方々がいます。たまたまご縁があってその方と一緒に活動をさせていただく機会にめぐまれ、わたしも初めてそういった現状を知ることになりました。

驚きでした。
通っていた幼稚園、小学校で当たり前にあった屋外のウサギ小屋。
園児が家からもってくる白菜、キャベツ、にんじんが主食で、
ウサギは土の上かコンクリートの上でだらーんと伸びて過ごしていました。うさぎ小屋はどちらかというと薄暗く、においもきつかったので正直あまり近寄りたいと思える場所ではありませんでした。

学校飼育の現状については後ほど関連記事をシェアすることとして、
そもそもウサギはたいへんデリケートな生き物で飼育が難しく、病気や不調も限界になるまで隠す習性があるので異変に気づくのはかなりマメな観察と知識を要します。なので、学校飼育といういわば「責任の所在が曖昧」で、「子どもが世話をする」ことも多い状況下でウサギを飼育するという根本的なそもそもに疑問を持ちます。
なぜウサギなのか?そこに明確な根拠はありません。

昔から手に入れやすかった、そして学校飼育といえばウサギという長い年月を経てできあがった根拠のない慣習がいまだ日本全国の小学校や幼稚園で行われているというのが実態です。

学校飼育のはじまり
日本において教育制度が確率した明治以降、学校飼育もなんらかの形で自然と行われてきたといわれています。石田おさむさんの著書「現代日本人の動物観」によると、その当時からの「学校飼育」についての論文は皆無に等しく、その理由を、現代にいたるまで学校という空間は動物の存在を望んでいなかったのではないか、とかいています。

学校の先生はただでさえ仕事に追われ疲弊しています。
子どもの数は減り続けており、毎年夏場の気温は上昇しています。
かつての日本の常識が現代では通じないのは明らかです。

わたしが疑問を超えて「怒り」すら覚えるのはこの点で、もちろんウサギ等のいきものがいい加減に扱われていることも気の毒だと思うし改善または飼育撤廃をすら必要だと思っていますが、それ以上になぜそのような明らかに異常な状況(一番下のリンク先の記事を読んで頂くとさまざまな学校飼育の悲惨な実例を知っていただけます)を現場のおとなが疑問にも思わず、そもそもこどもに何を教えるために学校飼育を行っているのか、おそらく先生たちも説明がつかないことを、ダラダラと続けていることに対して強い憤りを感じています。

こどものための情操教育、動物と暮らすことができない子供たちへ命の学びを、こうしたきれいな言葉とともに学校飼育が推奨されていますが、これについても「そもそも何がしたいの?」と言わざるをえません。

学校飼育であれば、犬でも猫でもウサギでも鳥でも昆虫でもメダカでも、いきものを飼育するのであれば、その生態やからだのなりたち、人との関わりの歴史から学ぶのがあるべき姿ではないのでしょうか?

例えばメダカであれば理科の時間に、メダカのオスとメスの体のつくりの違いを学び、どのような環境で生き、何を食べるのかを教科書で学んでから実際に各教室でメダカのつがいを飼育しはじめ、卵を生み繁殖していく過程を観察したことがある方は多いと思います。

なぜウサギはそれをしないのでしょうか。
飼育小屋にいるウサギはどこからきたのでしょうか?ウサギはもともとどういったところで暮らしていた動物で、どんなからだのつくりをしているのでしょうか?なぜ人の生活の中にウサギがいるのでしょうか?

情操教育、というけれどそれって何を培うためのものなんでしょうか?
わたしは、上記にかいたような”相手のことを知り理解しようとつとめ”、”他者のことを思いやれる想像力”を育むことなのではないかと思います。

情操教育(じょうそうきょういく)とは、感情や情緒を育み、創造的で、個性的な心の働きを豊かにするためとされる教育、および道徳的な意識や価値観を養うことを目的とした教育の総称。(wiki)

牧草を食べるいきものに野菜のヘタを与え、適温が23℃のいきものを38℃の炎天下に置く、なりたちを無視した飼育で感情や情緒が育まれるのでしょうか?くさくて汚い飼育小屋を掃除しなければいけない義務を負わされ、てきとうに水を与えた結果ウサギが衰弱し、動物病院にもつれていけない環境で道徳的な意識や価値観が養われるのでしょうか?

わたしはウサギの学校飼育を行う小学校の先生方が何を思ってそれをしているのか知りたいです。もし機会があれば根拠をきいてみたいと思います。娘の通う小学校では今はウサギの飼育は行われていません。ずいぶん前にウサギが亡くなってから飼育小屋は物置小屋と化しています。

ちゃんとした環境ならいいのか?
それなら、24時間冷暖房があり食事も牧草を与え、運動もさせてしっかり管理できる環境なら問題ないのでしょうか?わたしはそうとは思いません。なぜなら、ウサギの寿命は10年以上であるにもかかわらず、学校は先生が異動し、子どもたちは卒業していき、保護者も同じくして学校とは疎遠になっていきます。誰がいきものの命に責任を持ち最後まで面倒を見る責任を持つのでしょうか?責任の所在があいまいすぎるのです。また、その飼育のためのお金はどこからでるのでしょうか?PTA ?自治会?それはいつまでいくらが保証されるのでしょうか?

ウサギを見てくれたり避妊去勢手術をおこなう獣医師さんや動物病院はかなり少なく、またあっても高額です。さらにウサギはデリケートでしょっちゅう病気になったりします。医療費は一度に2万〜10万円が軽くとんでいくといいます。これだけでも、学校飼育にウサギが適していないと思いませんか?

わたしたちの常識では「ウサギ=かんたんに小屋で飼える」という昔からのイメージが定着しすぎていますがその固定概念はそろそろ払拭されるべきなのだと強く思います。

とはいえ、子どもたちにいきものとふれあいをさせたいという大人の気持ちはわたしもとても理解できるものであり、強く望んでいる立場でもあります。動物やいきものから学べるものは多く、彼らは人間にとって素晴らしい命の先生です。でもそれは、ときに命と向き合う厳しさも併せ持ってこそなのです。そこから目をそらして「情操教育」とかは単なるきれいごとでまやかしでしかないと思います。

はっきりいって「こどもをなめてる」し「いきものをなめてる」としか思えません。命は生まれたらいつか死にます。人間はいきものをときに利用し、その代償によって文明を発達させてきました。とくに犬や猫、うさぎなどの愛護動物が人と密接に関わっている歴史には学べるものが多く、だからこそ「なぜのらねこがいるのか?」「なぜ多くの人が犬と暮らしているのか?」そうした日常の当たり前に根拠をもつことができます。

わたしは学校の校則や会社のよくわからないきまりごととかもですが、なぜそれが必要なのか?根拠のないものに強い嫌悪感をいだきます。それは思考停止だからです。もちろん人には感情がありますので何もかもが理屈どおりいかないことは承知していますが、「単なる思考停止」でありさらにそこに声なき被害者が存在するような悪しき慣習にはどんどん疑問をなげかけていくべきだと思います。

できないならやらないほうがマシです。
必要なことであればできる人にやってもらえるような制度設計が必要ではないでしょうか。

最後に学校飼育の現状については以下の記事をぜひお読みください!

捨てうさぎ、学校飼育崩壊…。「かわいい」だけでは飼えないうさぎのこと、正しく知って〜一般社団法人リバティ


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