(小説)交響曲第五番(五・五)
(五・五)第五ラウンド・2分
本来ならば紀ちゃんから離れる為に、山谷から出ていくべきだったのだが、生憎他に宛てなどなかった。仕方なく自分はその後も山谷にとどまり、今迄通り日雇いの仕事に出た。自分は二十四歳になり、従って紀ちゃんは二十一歳になった。紀ちゃんには会わないと敬七さんと約束した日から、自分は林屋には二度と顔を出さず、紀ちゃんとも会わなかった。紀ちゃんの方から自分に会いに来るということもなかった。何処まで話したのかは知らないけれど、恐らくは自分について、敬七さんの口から何か伝わっていたからだろう。
ところが木枯らしが吹き荒れる年末の日暮れ時、突然紀ちゃんが自分の前に現れた。
「昇くん」
仕事から自分が帰って来るのを、若葉会館の前でずっと待っていたのだと言う。紀ちゃんは水色のビニールの袋に収めた四角く薄い荷物をひとつ、小脇に抱えていた。
「寒かったんじゃない、ごめんな」
なんとか笑って労いの言葉を掛けはしたけれど、自分の胸の中は久し振りに紀ちゃんに会った衝撃と感慨で、詰まりそうだった。
「平気、平気。わたしのことなんか、気にしないで」
そう言った切り、しかし紀ちゃんは自分を待っていた理由を語るでもなく、黙り込んでしまった。まさか今ここに敬七さんが現れることもないだろうけれど、紀ちゃんと一緒にいるのを他人に見られるのも良くないと思い、自分の方から口を開いた。
「ここじゃ何だから、風の丘公園にでも行くかい」
うん。すると紀ちゃんは無言で頷いた。風の丘公園に行くのは、紀ちゃんとのブランコでの抱擁以来だった。
南千住駅から常磐線で上野へ。上野駅から風の丘公園に着くと、人影はなく落葉を巻き込んだ木枯らしがヒューヒューと如何にも寒そうに吹いていた。日暮れから既に上野の街は夜の帳が降りて、見上げると灰色の雲が夜空全体を覆っていた。しかし雪が降りそうな寒気ではまだなかった。紀ちゃんと自分は今までもそうしたように、ブランコに腰掛けた。ひんやりとブランコは、尻に冷たかった。人がいないのに安心したのか、紀ちゃんは口を開いた。
「父から、聴いたわ」
えっ。
やっぱり紀ちゃんの息は白く、凍えた大気中へ吸い込まれ消えていった。
「ああ」
なんでもないように、自分は頷いた。自分の吐く息もまた、細く白かった。弱々しく大気中へと昇っていった。
「昇くん、覚えてる」
「なんだい」
「初めて昇くんと雪を見た、あの夜のこと」
「あっ。ああ、勿論さ」
「静かな夜だったね」
あの日を思い出すように、紀ちゃんは目を瞑った。
「そうだったな」
「もう一度、あの頃に帰りたい」
えっ。
もう一度、あの頃に、帰りたい。
紀ちゃん……。
目を開けた紀ちゃんと、目と目が合った。しかし自分はかぶりを振るしかなかった。
「御免、紀ちゃん」
「いいの、謝らないで。昇くんのせいじゃ、ないんだから」
そう言われると余計に辛かった。むしろ責められた方が気が楽だった。紀ちゃんはブランコから立ち上がった。釣られて自分もブランコから立った。
「ねえ、見て。今夜もオリオン座がきれいよ」
「うん、そうだな」
見上げると確かに、雲の切れ間から星の光が瞬いているのが見えた。
「そうだ。昇くんに渡そうと思って、これ、持って来たの」
そう言うと紀ちゃんは、持っていた水色のビニールの袋を、自分に向かって差し出した。
「何」
「レコード」
「レコード……。あっ、でも俺、ステレオなんか持ってないし」
「お願い、昇くんに貰って欲しいの」
紀ちゃんの目から、一筋の涙が零れ落ちた。それは宝石のような美しい涙の滴だった。その時自分は自分が犯したすべての罪が、紀ちゃんの涙によって、清められ救われたような気がした。
「じゃ、遠慮なく頂いとくよ。ありがとう、紀ちゃん」
ありがとう、紀ちゃん……。
自分は紀ちゃんの手から、それを受け取った。
「良かった。昇くん、じゃ、ね」
じゃ、ね。紀ちゃんは、それだけ言うと自分の前から走り出した。じゃ、ね。自分はただ突っ立ったまま、紀ちゃんの姿が消えてゆくのを、ぼんやりと見送っていた。じゃ、ね。紀ちゃんのその言葉だけが、いつまでも自分の耳の奥に響いていた。紀ちゃん、じゃ、ね……。
自分も風の丘公園を後にして、ドヤへと帰路に就いた。これですべてが終わったと思った。紀ちゃんと自分のことは、もう何もかも。今迄生きて来た二十四年の人生に於いて落ち込んだ時はいつも、シャドウボクシングで自分を奮い立たせて来たけれど、今夜ばかりはそんな気にもなれなかった。ただ抜け殻のように呆然としゃがみ込み、電気を消したまっ暗なドヤの個室の壁に凭れているしかなかった。
ふと紀ちゃんから手渡された荷物のことを思い出し、電気を点した。そしてその水色のビニールの袋から中味を取り出してみると、それは、マーラーの交響曲第五番のLPレコードだった。