茄子の輝き 滝口悠生
別れた妻との記憶への反芻を描く。しかし主人公は、妻を喪失した悲しみや意味については触れない。記憶への執着ゆえに自分では自覚していないほど彼には喪失の深い痛みがあるように読者は感じるであろう。
文体は、記憶時の時制と思い起こしている現在の時制を行き来し、記憶を蘇らせている自覚がいつのまにか他者に記憶を語ってしまう口調へと往来する。
著者は喪失の痛みではなく、記憶のもつ悲しい癒しを描く。あるいは、記憶の外にこぼれている世界の細やかさを愛する慰めに気づく。
別れから派生する喪失は、絶対的な悲しみではなく、生きると言う事自体が、実は、記憶と記憶されざるものの営みの中にある。そうならば、悲しみ自体が慰めではないか。そんな優しい呟きが残されるような小説群である。
だから、主人公は、記憶でない今を無邪気に動くものがいっそう可愛く見えてくる。
そしてそれを強く肯定したくなるのだ。