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もしも一度世界を救った主人公たちが「ここは任せて先に行け」を本気でやり切るとしたら

この記事でやろうとしていること

ゼノブレイド大好きマンな私が、ゼノブレイド3追加ストーリーを早口でPRするだけの記事。
せっかくなので、ゼノブレイド3本編もこうだったらよかったのになーまで踏み込んで書き殴ってみる。

プレゼン記事なのにネタバレ全開になる可能性があるため、プレイ前に情報を一切入れたくない人は注意。


ゼノブレイドシリーズの魅力はイケオジにある

思い返すと、ゼノブレイドシリーズにはだいたい主人公たちの兄貴分が登場する。
ゼノブレイドではダンバンさん。
ゼノブレイド2ではヴァンダムとジーク。
ゼノブレイド3追加ストーリーではシュルクとレックス。

それぞれ、主人公(プレイヤー)より少し人生経験が豊富で、その知識や行動で様々なことを教えてくれて、時に一緒に学んでいく。
先生・師匠・先輩――呼び方は様々だけれど、そういう頼れる兄貴分という存在は、現実世界でも必ず傍にいるとは限らない。

でも、ゼノブレイドにはだいたいいつもいる。それは私のように根暗で陰キャで晴れた休日でも自室に籠ってゲームをする人間でも、偉人から学ぶことのできる貴重な機会だ。
特に、『新たなる未来』では、世界を一緒に冒険してきて救った自分の分身とも言える『元』主人公――シュルクとレックスのその後が描かれる。
あの冒険を経て、二人はどんな人生を歩んできたのか。そしてこれからどんな未来を目指していくのか。また一緒に冒険できるなんて、嬉しいことこの上ない。
しかも、イケオジに定評のあるゼノブレイドシリーズで、彼らがそのオジサン枠になるのだ。
いったいどんな姿を見せてくれるのだろう。


レックスの場合:守る理由を教えてくれる、不器用だけどカッコイイ床ペロおじさん

「お前と出会ったのは偶然だ。偶然、お前と俺とがキズナで結ばれた。なら守らねぇとな」
「世界を守るってのは、そういうことさ」

なぜ人助けをするのか。その身を犠牲にしてまで誰かを守ろうとするのか。
思春期真っ盛りの跳ねっ返り少女カギロイの素朴な疑問に「俺が戦うことで誰かが笑ってくれるなら――そんな世界を作ることが出来たら」と答える。なるほど一度世界を救っただけのことはある。

でも、そんな綺麗ごとを言われても――彼女は受け止めることが出来るのだろうか?
プレイヤーとしての自分はゼノブレイド2での生き様を知っているが、今レックスと話している少女はそんなレックスのことを何も知らない。
もしも、自分がカギロイと同じ境遇だったとしたら――生きることと戦って死ぬことが同義で、十年間生き残って自殺する栄誉しか知らなくて、ある日突然「お前はいらない」と言われて処分される世界に生きていたとしたら。
現代日本で暮らしている現実の自分は、幸いにもそんな風に言われたことはない。
ただ――社会から「お前はいらない」とみなされているんじゃないか、自分の価値はないんじゃないか、と不安になる気持ちは痛いほど分かる。
いつだって自分をないがしろにしてきた「敵」を、見ず知らずの人を、助けるなんて。理解できない。

レックスはその不安に対する回答の一つを、とても分かりやすく示してくれた。
彼が世界を守る理由はただ単に、身近にいる人に笑っていてほしいというとても個人的な理由だった。あえて極端に単純化して言うなら、苦しいより楽しい方がいいだろうと。

彼女はずっと苦しそうに生きていた。登場シーンから悲壮面で戦っていたし、良心に背いて助けてくれた人を裏切ったし、ずっと切羽詰まって辛そうにしていた。
そんな君が笑ってくれたら。死んでいく仲間の無念を抱え込むしかなくて、それは無意味だったと思い知らされた彼女にとって、初めて自分自身を見てくれる人がいると知ることが出来た。

彼は決して、ただの自己犠牲の精神でいるのではない。誰かに自己犠牲を強いているわけでもない。
ただ自分のために必死に戦って、結果的にみんなを守っている。その在り方はこれまでの少女の生き様と何も違いはなくて――君の行いには価値がある、君にだってやれると彼女に伝わる文脈で教えてくれた。

レックスのことをよく知るプレイヤーにとっては尚更――ただ娘(に限りなく近い存在)を守りたいだけの不器用なおじさんがカッコつけているだけで、まぁ微笑ましいというかなんというか。
それにしてもレックスさん、バ火力過ぎて真っ先にリンチされて戦闘不能になって、娘に助け起こされる気分はどうですか。大人の面子は守れていますか。

この、なんか締まらない感じは何ともレックスらしい。ゼノブレイド2をプレイしたファンとしては変わってないレックスを見れたのも楽しかったし、だからこそレックスの言葉を前作主人公という配役の台詞じゃなくて、人生の先輩からのアドバイスとして受け止めることが出来る。

人助けは幸せを掴むための手続き(の一つ)に過ぎないこと。それは難しいことじゃなくて自分にもきっとできるんだ、ということを。


シュルクの場合:後ろから見守っていてくれる、穏やかな先生

「その時その時でどう応えるか。それが大事だと僕は思ってる」

シュルクはこの言葉をずっと体現してきた。
リーダーでありながら一歩引いたところで腰を据えて、メンバーが悩んだりうろたえたりした時に、状況を整理して適切に対応していく。レックスが背中で語る大人だとしたら、シュルクは背中を押す大人のように振舞っている。

支えてくれる人がいる。その安心感があるからこそ人は前向きになれるし、先に進んでみようと未知の領域に挑戦することができる。
神になることを捨てて人として生きていくと決めたシュルクだからこそ、見守ることの大切さをよく分かっていて、そんな人物だからみんなに頼られる。自然体のままでめちゃくちゃ格好いいし、自分もこんな大人になりたいと思わずにはいられない。天然「人たらし」は次元を超える。

でも、自分もシュルクみたいになれるだろうか。彼ほど心優しくはないし、過酷な運命も背負っていない。全幅の信頼を寄せる親友や仲間が常に隣にいるとも限らない。
作中で直接的な描写こそなかったがきっとニコルも感じたと思う。どうしてこんなに強い在り方でいられるのだろう、と。

その答えはきっと、「打てる手はすべて打つ」という台詞の通り、地道に学び続けることなんじゃないか、と思う。
若かりし頃から、シュルクは常に何かを学ぼうとしていた。初めは機械いじりから始まって、モナドの秘密や、巨神界と機神界とが争うことになった理由、果てには神とは何か、未来とは何かという根源的な問いにまで。
大人になった今でさえ、機械いじりのことをニコルに聞いたり、未来についてエイと確認し合ったりと、誰よりも学ぶ人として描かれている。
みんなに教える先生でありながら、誰よりも勉強熱心な学徒であること。そのシュルクの在り方は、きっと誰でも真似できる。

魔法(エーテル)ありきの世界で科学者をやっている人がいるのなら、科学ありきの現実世界でも同じようにやってみよう。その学びの果てに誰かを守れると信じて。


夢物語の中で暮らしていくために

小さい頃、「どうしたらポケモンの世界で暮らせるのだろう」と思ったことがある。
現実世界はあまりにも苦しくて、やるせなくて、ここではないどこかで楽しく過ごしたい。肉体は間違いなく現実にあったけれど、精神はファンタジーの中こそが現実だと思っていた。

日本には楽しい冒険活劇(ファンタジー)作品がたくさんある。最近では『異世界転生もの』と呼ばれるジャンルで、たくさんの主人公が辛くて苦しい現実世界から逃れて異世界生活を楽しんでいる。
でも、それらの作品ではどうしても物足りない。

『新たなる未来』では、世界の敵であるメビウス勢力とそれに抗うシティーの一員から物語が始まる。
主人公のマシューがある程度世情を知っているから、ケヴェスとアグヌスとの戦いを仲裁するのも、「本当の敵を見誤るな」と言って執政官(メビウス)と戦うのも納得がいく。
また、ケヴェス・アグヌス両軍の兵士を同時に救った以上、二人が小競り合いすることも、自軍から反逆者扱いされてしまうことも分かったうえで、二人を保護して守っていく責任をしっかり負っている。
シュルクとレックスも、それぞれの生活を守るためにアイオニオンに乗り込んでいて、世界の名代として責任を負っている。

そして最後には、アイオニオンという『今』を留めるために、シュルクとレックスは世界を支える柱になった。自分たちではない『誰か』に、この世界を救うことを託して。
これこそ正に、一度世界を救った英雄がもう一度世界を救う「ここは任せて先に行け」の究極系だ。

RPGは古き良き冒険活劇――手厳しい表現をすると「責任を負わない人々による無責任な物語」になりがちな側面がある。しかし『新たなる未来』は、アイオニオンという新天地を巡る冒険活劇としての側面と、人類存続をかけた防衛戦争としての側面がある。彼らは生きるために戦っているので、生活のために必要な知識・技能を戦うことしか知らない人に教えるし、世界の崩壊を防ぐためなら世界の敵とも一時的に手を結ぶ。
アイオニオンでは、そこで命を受けた人々が必死に生きている。現実世界の自分と同じように。

きっと、ファンタジー世界で暮らすためには、そういう必死さが必要なんだと思う。ファンタジーは無責任な自分でも勇者になれる都合のいい理想郷じゃなくて、現実に生きる時と同じように様々な問題があって、それを解決するために必死になって情報を集めて、考えて、乗り越えていく場所なんじゃないか。少なくとも私にとっての冒険(ファンタジー)は、その結末を見るまで全力で駆け抜けて、その過程で様々なことを楽しみながら自然と学んでいる貴重な人生経験の一つだ。

シュルクとレックスは教えてくれた。「君にもできる。やり方はこうだ」

もしも自分がファンタジー世界を描くのなら、夢の微睡で終わらない物語にしたい。そんな物語を書くことが出来たのなら、シュルクやレックスに託された思いに少しは報いることができるだろう。


おわりに:ゼノブレイド3本編にも兄貴(イケオジ)を……

ゼノブレイド3本編では何故か兄貴分にあたる人が誰も登場しない。
(ゲルニカは犠牲になったのだ。古くから続く脚本(オマージュ)の……その犠牲にな……)

10年間しか生きられないケヴェス・アグヌス文明に暮らすノア達が主人公だからこそ、『新たなる未来』におけるマシューのような兄貴分がいて欲しかった。

もしも、物語冒頭のメビウス初戦後からシティー出身の兄貴が同行しているとしたら。
少なくとも、わけもわからないままアイオニオンを探索するという、いったい何を目指しているのか分からずプレイする状態にはならなかったと思う。
ケヴェス・アグヌス文明の中で異端な思想を持つノア・ミオがどうしてそんな風に思うようになったか分からず仕舞いで、二人が惹かれ合う理由もはっきりしなくて、メビウスを倒すことの意味に気づかないままアイオニオンを破壊して冒険が終わってしまった、そんな悲しい結末とは違った形でゼノブレイド3本編を楽しめたかもしれない。

現実世界ではよくあることだ。理由もなく班を組みなさい、周りに合わせなさいと言われたり。この作業は何の事業目標を達成するためのタスクなのか説明されなかったり。
でも、せっかく広い世界を旅するのだから、冒険する意味を見出したい。現実の人の身じゃいけなさそうな場所に行ってみたり、綺麗な景色を探しに行ってみたり。現実ではちっぽけな自分でも、誰かのために何かできるんだと思えたり。
叶うことなら、その旅を終えて現実――はじまりのまち――に帰ってきた時に、旅立ちのころから新しいことを学んで、ほんの少しでいいから明日が楽しみになっていたい。
空想に生きた時間を振り返って、そこでの経験はどうだったか、何を感じたのか、それらを明日からの時間でどのように発信していこうか、真似してみようか。

現実ではなかなか実感することの難しい、自分にも出来るかもしれないという感覚。
それが夢物語を冒険することの醍醐味なのだから。

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