映画The Shape of Waterの雑感ノート
はじめに
以下の文章は、2018年5月にとある冊子のために書き下ろしたものである。残念ながらその冊子は結局発行されることはなかったので、ここで供養したいと思う。
******************************
最初に断っておかなければならないが、私は映画評論家でも何でもないどころか、普段あまり映画を見ない。私は仏教美術の図像の研究に従事しているものであり、どちらかというと映像よりも、平面的かつ静的な絵画を眺めてはあれこれ考えている方が性に合う。極めて二次元的な感受性の持ち主なのだろうと思う。
しかし今年(註:2018年)の3月頭、映画好きの夫に誘われるまま映画館で鑑賞したThe Shape of Waterは、脳裡に鮮烈な印象を残した。私は文芸作品における所謂「人外」というジャンルが好きなので、最初は人外の美しい生き物と、言葉を話すことが出来ないが勇敢な女性のラブストーリーが単純にツボにハマったのだろうと思っていた。大人の御伽噺という体の、ファンタジー調の語り口も実に好みであった。だがしかし、時が経つに連れ、作品冒頭の青い水に満たされた部屋と水中を漂う家具や、ほの暗い研究所を行き交う掃除用台車とハイヒールの音、鱗のような装飾で飾られたイライザの青い部屋、最後の全てを洗い流すような大雨のシーンなどが、作中の印象的な台詞と共に度々フラッシュバックしてきた。そして同時に、沢山の疑問が湧き上がってきた。なぜ冒頭でチョコレート工場が燃えなければいけなかったのか。随所に挿入される聖書からの引用と物語の構造はどう関連していたのか、等々。まるで、イライザの部屋に渦巻く青く昏い情欲に取り憑かれてしまったかのようだった。
幸い職業柄、飛行機での移動が多いため、第一回目の鑑賞から約二週間後に機内で改めて本作を鑑賞する機会を得た際、本作が随所に文学的・寓話的・図像学的なレトリックの散りばめられた重層的な作品であることに気が付いた(映画通の方ならば、きっと一回目で看破していたことであろう)。そして、気付けば既に照明の落とされた機内で、文学作品や美術作品を読み解くような心持ちで本作の考察を夢中で走り書きする自分がいた。
以下は、その時の雑感ノートを文章として書き起こしたものである。繰り返しの前置きとなるが、私は映画批評の全くの門外漢なので、本作やその制作陣を他の映画作品と比較したり、映画史の中で論じたりするようなことは出来ない。また、発行部数限定の公式設定資料集の存在もだいぶ後になって知ったもので、今なお入手出来ていない。そのため、以下の文章はあくまで一人の鑑賞者が思いのままに書き殴った、極めて個人的な「読み」の可能性の一つに過ぎないことを予め断っておきたい。なお、本作を未鑑賞の方には、物語の核心に触れる記述が多く含まれるため、本作鑑賞後にお読み頂くことをお薦めしたい。
聖書的世界観へのアンチテーゼ
The Shape of Waterには、作中に一貫して聖書の暗喩が挿入されている。イライザの人生が変わる日、すなわち研究所に半魚人が運び込まれてきた日の朝、イライザたちの住むアパートメントの一階の映画館では「砂漠の女王」「恋愛候補生」という二本立ての映画の上映が始まった。このうち「砂漠の女王」は、旧約聖書「ルツ記」を題材とした物語であり、映画館の主人は出勤時のイライザに向かって、聖書の物語を題材とした映画など「不人気で、誰も見たがらない」と嘆く。この時点で、本作は聖書的な世界観・人間観への批判を通奏低音としていることが暗示されている。
ここで批判の対象となっているのは、人を神の似姿と捉え、人間のみを中心とした世界観、ないしそれに基づいて構成されてきた西洋近代社会の価値観の歪みであろう。聖書において、世界は初めに光と言葉ありきであった。対する作中の主人公たちの属する世界は、常に仄暗く、未分化の原初の生命力を持つ昏い水に溢れた、言葉のない世界である。主役となるのは、言葉を話すことの出来ない不美人な主人公イライザと、同じく言葉を操ることの出来ない怪物じみた半魚人のカップルだ。さらに主人公の親友であるアフリカ系アメリカ人のゼルダと、主人公の隣人である初老の同性愛者ジャイルズによって主人公チームが形成されている。これは聖書的価値観、ないし米国の当時の価値体系からすれば、まさに異形の者たちの物語であると言えよう。
イライザの部屋を脱け出した半魚人が一人映画館のスクリーンの前に立っているのを、イライザが発見して抱きしめ合うシーンがある。スクリーンに映し出されているのは「砂漠の女王」の一幕、鎖に繋がれた奴隷たちが、頭上に倒れかかる偶像を見て悲鳴を上げている場面である。しかし、退屈な聖書の物語は、元より異端者である主人公たちにとっては全く意味を持たず、馬鹿馬鹿しいほどにロマンチックな背景となる。このシーンは、彼ら二人が聖書的な価値観から脱しているがために、如何に自由であるかを象徴していると言えるだろう。
なお、作中では繰り返し水中の茹で卵の映像が挿入されている。キリスト教的文脈において、卵はイースター、ひいては復活や新たな生命の象徴である。茹で卵は、イライザと半魚人の愛を育むコミュニケーション・ツールとなっただけでなく、最期に銃撃を受け地上での生を終えたイライザが、半魚人の祝福を受け、水中世界で新たな生とアイデンティティを獲得することの予兆を示しているのだろう。
人間であることの証明
異形の主人公たちに対し、ストリックランドはまさに人間中心世界観の具現化のような存在であり、本作のキーパーソンである。
「まともな人間 (a modest, decent man)」であることを証明し続けねばならないストリックランドは、社会的な地位も名誉も模範的な家庭も何もかも手にしているのにも関わらず、誰よりも孤独であり、また常に新車やより良い家などの外的アイコンによって、自らの存在と価値を証明し続ける必要がある。「まともな人間」の基準に忠実であろうとすればするほど、ストリックランドが非人道的と言える行為に走ってゆく姿は、滑稽でもあり哀しくもある。なお、映画の冒頭で言及される「すべてを壊そうとしたモンスター」とは無論、半魚人ではなくストリックランドのことであろう。
ちなみに、用を足した後に手を洗うことを恥とするストリックランドの手は、一種の穢れを表象されているように思われる。夫をベッドに誘うストリックランドの妻は「よーく、手を洗ってね」と念を押す。一方、半魚人の奪取の手掛かりを掴んだストリックランドがゼルダ(デリダ)宅へ押し入った際、ゼルダの夫は妻の味方に立つことなく、イライザが奪取に関与しているという情報をリークした。その夫とストリックランドは固い握手を交わす。これはゼルダの夫が、裏切り者の穢れを受けたことを示すのではないだろうか。
一方、「まともな人間」から程遠いイライザたちは、社会のメインストリームから爪弾きにされた孤独感を感じつつも、孤独の感覚を共有できる友人たちと内的に深く繋がっている。生体解剖にかけられそうになった半魚人を救うために奔走するイライザの「彼を助けなければ私たちも人間ではない」という主張は、聖書的な価値観における「人間」の定義に疑問を投げかけており、ひいては幼少の頃より怪獣ファンだというギレルモ・デル・トロ監督自身の意思表示でもあるのだろう。
自らを旧約聖書のユダヤの預言者サムエルに擬え、傲慢なほどに聖書の価値観に雁字搦めになっていたストリックランドは、死の間際に半魚人に対して、絶望的な表情を浮かべつつ「お前は神か?」と問う。それは、半魚人がキリスト教における神の証明である「復活」を彼の目の前で行ってみせたからに他ならない。
神の再定義
本作は、西洋的な全知全能たる「神」の定義にも疑問を投げかけている。アマゾンの部族に神として崇拝されていたという半魚人は、聖書的な、人間をイデアライズした存在としての神とは程遠く、本能のままに猫をも食べてしまう言葉も解さない存在である。しかし、半魚人は生と死を司る力を持つことが暗示されている。その鱗が慈愛によって青く光るとき、失われた毛根の復活や傷の治癒をしてみせるが、攻撃性を持って切り落としたストリックランドの指は、手術にも関わらず毒が回ったかのように壊死してしまった。それを「神」と呼ぶことが正しいのかどうかはともかく、半魚人は、単純に人間の尺度で測れる基準を超越していた、異形・異能の存在なのである。
このアンノウンな存在を受け入れる余地を持たないストリックランドたちにとって、半魚人は「醜悪極まりない存在」として見做されていた。しかし、元より社会のメインストリームから逸脱している主人公たちとソ連の諜報員科学者ディミトリにとって、半魚人は見惚れるほど「美しい」存在であった。異質な他者と向き合う態度は、受容者の文脈によってこれほどまでに左右されてしまう。グローバル化による異文化との対峙と理解がかつてないほど深刻に問われている現代において、このようなメッセージの投げかけが如何に意義深いものであるかは言うまでもないだろう。
なお、半魚人はどうも映像がお好きらしい。ジャイルズの部屋のテレビ画面には、誰もが資本主義によって幸せになれると無批判に信じられていた神話的時代の、「まともな人間」の「幸せ」の象徴たる娯楽・音楽番組が流れている。半魚人(神?)は、ブラウン管の中に映し出されたそれを不思議そうに覗き込むのであった。
名称とアイデンティティ
本作では、名前(=レッテル、肩書)への批判意識も見られる。主人公たちは「階級もなく」また「名もなき」掃除屋であり、また半魚人に至っては、最後まで名前すら登場しない。何しろイライザが無声なので、二人の世界において名を呼ぶ必要はなく、手話での私/あなたの二人称で完結するのである。また、ソ連のスパイとして研究所に入り込んでいるホフステトラーは、ボブという仮の名を嫌い、事情を知っている者たちからはあくまでディミトリという本名で呼ばれることに執着する。この態度には、ディミトリがあくまで諜報員としてではなく、自然世界の探求に充実する一人の科学者として真摯に生きたかったという姿勢の表れであろう。その魂の叫びは、半魚人の生体解剖を決議したストリックランドらに対し、「この複雑で美しい生き物を殺したくない」と猛烈に抗議する台詞に集約されている。
一方、ストリックランドは階級や社会的レッテルに固執する余り、人間性を失っている。この点、最後まで定義不能・未分類・名称をもたない存在であったにも関わらず、誰よりも強力な存在で居続けた半魚人との対比が見事である。
緑色の菓子と嘘
かつてインタビューで、ギレルモ・デル・トロ監督自身は本作における緑色を「未来」の象徴だと発言していたが、個人的には緑色には「未来」だけでなく、菓子の着色料として使われることにより、人間の不寛容、浅薄さ、嘘吐きなどの悪徳全般をも表象しているように思われる。
一見どんな客にも愛嬌を振りまくように見せかけて、実は極めて人種差別的なパイ屋では、緑の人工着色料たっぷりの不味いキーライムパイが提供される。パイ屋の常連であった絵描きのジャイルズは、元上司から、絵の中の幸せな家族が囲む赤いパイを緑色に塗りなおすよう要求されるが、結局塗り直したところで再雇用の口約束は反故にされてしまう。さらに、ジャイルズの絵をそのまま現実に移し替えたかのようなストリックランドの家庭では、まるで絵に描いたような妻が、まるで絵のままにファンシーな緑色のゼラチンケーキを運んでくる。職場での重圧と「理想的なアメリカの家庭」のギャップに辟易したかのようなストリックランドが一人うな垂れるのは、「ティール」と呼ばれる緑色顔料を何層にも重ね塗りした色のキャデラックの車内である。そして決定的なのは、ストリックランドが嘘を吐くときや悪意を見せるとき、口の中に含んだ緑色の飴を相手に見せる癖。これらの緑色は、嘘で嘘を塗り重ねた人々の不誠実さや悪徳の象徴なのであろう。
一方、本作においては、必ずしも緑色でなくても、菓子自体が人の罪を象徴しているものと思われる。イライザとジャイルズが半魚人奪取作戦を決行した日、偽の洗濯カーで駆け抜ける道路にはお菓子の看板がずらりと並んでいる。また、本作の冒頭では近隣のチョコレート工場が火事になり、イライザたちの部屋にまで焼けたチョコレートの甘い香りが漂っていた。それを「悲劇がもたらす喜びだ」とジャイルズは語った。人々を堕落や悪徳へと導く甘い罠を生産する罪深い工場は轟轟と燃え上がり、消防車の放水と雨により消し止められた。ここでは水が、人間の罰されるべき罪を洗い清めるものとして表象されているように思う。
形無き水のかたち、声無き者たちの声
幼少期に喉に声帯を割くひっかき傷を負った状態で川に捨てられていたというイライザは、生まれながらに水の眷族となる宿命を与えられていたのだろう。物語のクライマックスにおいて、土砂降りの雨は、聖書的な世界観をその混沌の力で包み込んで転覆させる舞台装置としての役割を果たしている。半魚人の口づけにより、イライザの聖痕は鰓に変化し、とうとう成るべくして水の眷族と成った。恐らく二人はそのまま水中世界で幸せに生き、新たな子孫すら誕生したかもしれない。もしそうであれば、水中において二人はアダムとイヴであり、旧約聖書の創世記に代わる、オルタナティブな「水の創世記」を紡いだこととなろう。
本作は、社会的弱者である異形の者たちの逆転の物語である。それは言い換えれば、社会的に饒舌な者たちの孤独と絶望と、社会的に声なき者たちの絆と愛と希望を描いた物語でもあるとも言えよう。主人公イライザは、言葉を発することが出来ないにも関わらず、手話と表情によって誰よりも豊かな感情と強い意志を示し、仲間の手助けを借りながら、鎖に繋がれた王子様を洗濯用台車で救い出す、勇敢なお姫様なのだ。
小気味よいほどの価値の顛倒と、複雑で美しい暗喩の体系。それらを抒情的な音楽と共に一片の映像作品として練り上げたデル・トロ監督の見事な手腕に、ただ感服するばかりである。