健康で文化的な生活のための「胸糞」

noteのアカウントはこれで4つ目になる。
1つ目はライフワークとする「デザイン」についての日記用
2つ目はより具体的なデザイナーの仕事についての記録用
3つ目は出生・家庭問題など、パーソナルな話題を扱った物。
では、今回新たに作成した、このアカウントは何のために作ったのか?

大袈裟に言えば、「近代のエラー」について取り扱いたい。


近代のエラーとは?

4アカウントに共通し、私が常に取り組んでいる課題は、合理化された社会に着いて行けない人間の課題を解決する。ことである。


デザインで解決しようとするエラー

Webサイト、スマホアプリの開発で、事業部門とエンジニアが仕様を作成するとき、「ユーザーはこんな認知をして理想的な行動をするだろう。」と考えがちだ。

リリースしてみると、ユーザーは「なんとなく」としか考えずに、間違った操作をすることも多い。事前にユーザーテストを行ったり、そもそも、ユーザーが「どのように世界と接しているのか」「何があれば意欲を持って行動するのか」を調査した上で設計することで、精度を上げることができる。失敗しても、どこがユーザーの認知・意識と乖離していたのかを調査・改善することが、ユーザーの行動を促し、事業成果を上げるのに役立つだろう。

これが、私が取り組む「デザイン」の領域だ。

自分は、商業・UIデザインに取り組んでいる。つまり職人の手仕事による「工芸」「アート」ではなく、産業革命以後の資本主義社会における、事業活動に組み込まれる形のデザインに従事している。だから「近代のエラー」に取り組むというデザインワークという考え方になる。


出生のエラー

上記は「ユーザー」として見ていたが、そのユーザーは、それぞれ1人の「人間」である。人間と社会についてのエラーの例を上げよう。

我々が暮らす社会において「家庭」は最小単位のコミュニティとされており、親・保護者は子の幸福のために、行動することを前提に設計されている。何かを契約する際に、親・保護者の同意を求めるオペレーションになっているのは、このためである。

しかし、親だからと言って、子より妥当な判断が出来るのだろうか?
また、親が必ずしも子の味方になってくれるだろうか?
親というユーザーは、社会全体の設計者の意図に反して行動することも大いにありえるだろう。なぜなら、彼らはユーザーである前に、1人の「人間」なのであるから。


出生のエラー・実例

恥ずかしながら、例えば…我が家庭の親も「水」を爆買いする奇行に走り、説得虚しく、もう10年以上も騙され続けている。(=妥当な判断が出来ない)

あまつさえ、子に「この水を買わないと、家族とは認めない。」と宣言する始末だ。我が家にとって、「家庭」という繋がりなんて、その程度のものなのである。(=子の味方になってくれるとは限らない)

無論、こんな親の許可がないと、行動ができない子の人生はエラーの連続であった。

しかし、その家庭に生まれたのは「自己責任」である。社会的に優遇されることはない。合理的に考えれば、それで良い。感情的になるのは、是非10代までにしたいものだ。寿命は有限であるから。職業柄「システム変更で生じる不都合」も日々身に沁みて感じるので社会を恨むつもりもない。

今更な話ではあるが一応:


しかし、私は消化できない感情を持っていた。水の件だけならまだ良いが、親から毎日「○ね」と罵倒され続けた幼少期の記憶、自○を考え続けた小学生時代。自我を持った中学生以降の怒り…

生まれたせいで感じる苦痛。それも、生まれて来た自分の責任である。と、理屈では理解できる。親に「なぜ自分を産んだのか」を問いただし、慰謝料を請求したり、子宮に戻してもらうのは不可能だからだ。自分が存在してしまった事実は、覆すことが出来ないのである。

しかし、感情が…怒りがおさまる訳がなかろう。
…というのが、3つ目のアカウントの内容だった。


一言で言えば、アダルトチルドレンの克服に注力している。最近はそのワークも、完了しつつある。やった事としては、自分をユーザーとし、課題(不満)のヒアリング、整理・分析、施策を立て、実行する。デザインと同じことを行った。

「そうなんですね〜、この本を読んでみては?良さそう?次回感想を聞かせてください。」
週次セルフ1on1のイメージ


出生のエラー・次へ

苦痛が解消しつつある現在、次に取り組むべきは何だろうか?
健康で文化的な生活を営むことであろう。長期的に、ただしく労働・ただしく納税・ただしく消費する為に必要であるし、自分自身の人権を尊重するには欠かせないことだ。

健康で文化的な生活を営む為に何が必要なのか?
健康:まず、生への意欲が湧く状態を目指す。
文化的:適度にモチベーションがあり、何らかの活動できている状態を目指す。

裏を返すと…

近代(現代)社会において、「生への意欲が湧き、適度にモチベーションがあり、何らかの活動できている状態になっている」だろうという前提があるのにも関わらず、そうなっていなかったエラーが起きていた。

とも言える。消費者(労働者)が、そうやって生きてくれないと、この社会は成り立たないのだから、そうだろう。



私という人間の能動的な人生のために


人生の体験品質の評価軸

UXデザインの発想を、人生の考察へ流用してみよう。

人生の自律性:
自身が人生の主導権を握っているという実感があるか

人生の関係性:
自分が自分自身に理解されているという実感があるか
要らない商品を勧めてくるモーダル広告のように、不要な思考で脳が埋めつくされるのは嫌。
欲を言えば、他者にも理解して欲しい所だが、まずは自分から。

人生の有能性:
自分の人生を上手く使いこなせている実感が湧くか
悩みの克服、スキルの新規獲得、タスクの成功など、成功体験の積み重ねが次の活動の意欲につながるだろう。


人生の体験品質の評価

上記の水の件を思い出して、何も手に付かなくなる日々にはうんざり。
→ほぼ解決済み

悩みの克服、スキルの新規獲得、タスクの成功など、成功体験の積み重ね
→完璧とはいわないが、結構達成できている実感がある。

仕事においては一定の満足感がある。10代の頃に行動の制限があった割には、よくやっていると自分を評価できる。

…仕事以外は?
趣味は?読む本は仕事の物ばかりではない?
労働だけしていたい訳ではないよね?

労働者としてのデザインを重視しすぎて、他がおざなりになっていないか?
消費者としてのデザインを重視しすぎて、他がおざなりになっていないか?

私は本当に、こんな人間だったか?

就活中の自画像「人間合格」


労働者としての自分からの解放

リリースしてみると、ユーザーは「なんとなく」としか考えずに、間違った操作をすることも多い。

冒頭の文章

ユーザーが間違った操作をすることは、私の力不足せいだ…

ああ…うっせ…ッ!!

もう、人が間違った選択をしているのを見て、嘲笑う機会がないとやっていられない。それは、配慮が重視される社会で、非難されることかもしれないが、労働者としての自分へ課した禁止を破らなければ、労働から解放されない…ッ!!他人が困った所がもっと見たいんじゃ…!!

※普段の思考を締め付けすぎると、このように極端な衝動が噴出する。


ずっと、胸糞コンテンツだけ見てたいいいいい。
なんで?
他人が理不尽な目にあっている所が、見たいんだよおおお!!
それが「自業自得」であれば、なお良いいああああがああああ!!!


ということで、正しいデザイナーであるために、デザイナーというアイデンティティを傍に置いて、人々が困っている胸糞コンテンツを、もっと見よう。これが、この4つ目のアカウントの作成意図。

これも、近代以降の「時間に従順で勤勉に働く労働者」という仕様に、私というユーザーが付いて行けていない件なので、広い意味で他アカウントと同様の方向性ではある。

胸糞コンテンツの感想、もしくは、コンテンツを読解するのに必要な知識の備忘録として、本アカウントは活用する予定だ。



以下、死生観の考察の過程で出会った、「胸糞をもっと見よう」と思ったきっかけ。

労働と理性の世界は、人間の生の基礎であるのだが、私たちは完全に労働に没頭しているわけではない。理性が命令を発するにしても、私たちの服従はけっして無制限というわけではない。人間は自らの活動によって合理的な世界を築いたが、しかし人間の内部にはいつも暴力の基底が存続している。自然もまた暴力的である。私たちがどれほど理性的になっても、暴力が再び私たちを支配することがあるのだ。その暴力は、もはや自然の暴力ではなく、一個の理性の存在の暴力なのである。理性に従おうと試みたにもかかわらず、理性に引き戻しえない自分のなかの運動に屈服してしまう。そういう存在の暴力なのである。

エロティシズム-ジョルジュ・バタイユ 酒井健訳

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