詩詞評|『天気予報』羊文学
作品紹介
歌のあらすじはこうです。
幼い頃、未来は天気予報のように信頼することができた、だから現実を笑い飛ばすことができた。でも、今、未来は天気予報のように信頼することができなくなった、だから現実を笑い飛ばすことができなくなった。
けれど、その懊悩とは裏腹に、歌は聴く者を煽るように問いかけます。「僕らが憧れた未来予想のその先はドキドキするような未来を運ぶかい?」。未来は天気予報のように信頼することができなくなった、でも、「未来予想のその先」、つまり、予測できる範囲を超えた次の時代は、みんなが憧れた時代を築いてみよう。
結論を先取りして言えば、『天気予報』は<希望という未来が失墜した時代の希望の歌>です。
読解
『天気予報』を読み解くキーワードは「未来予想」です。
<天気による視界の良し悪し>は、<将来の見通しの良し悪し>の暗喩として読むことができます。「晴」が<将来の見通しの良さ>を、「雨」が<将来の見通しの悪さ>を、そして、それはそのまま「天気予報」は本当にあてにすることができるかどうかを同時に表現しています。
Aメロディーは回想のパートになっています。
「子供の頃」は、たとえ「天気予報」が明日明後日は雨だと言い、これからジメジメした嫌な日がやってくるのだとしても、「晴れている空は嘘つき」と冗談を言って現実を笑い飛ばし、嫌な<未来>が来る心づもりをすることができた。
Bメロディーは願望のパートになっています。
「僕らが夢見た将来」は、「子供の頃」にそうしたように、晴予報の太陽マークを数え上げては「雨降りの今は嘘つき」と冗談を言って現実を笑い飛ばして、楽しみな<未来>に期待することができるはずだった。けれど、それができない。「笑い合えたらいいのに」という願いのフレーズは、<笑い合えない>という陰影を強く際立たせています。「僕ら」は「天気予報」を信じることができず、<未来>に期待することができず、ただただ「雨降りの今」を耐え凌ぐしかない。
回想パートと願望パートのこのギャップ、つまり<未来予想をもとに今は嘘つきだと現実を笑い飛ばすこと>ができたりできなかったりするのはどうしてでしょうか。
それは「天気予報」と現実の空模様それぞれの信憑性にまつわるものです。「子供の頃」は、「天気予報」は現実の空模様と同じだけの信憑性を持っていた。子供でなくなった今は、「天気予報」は現実の空模様と同じだけの信憑性を持たなくなった。回想パートでは、「天気予報」も「晴れている空」も同じだけ信憑性のあるものだったので、「僕ら」にとってはどちらも同じだけ確からしいです。「晴れている空」はそのまま<将来の見通しの良さ>を暗示しており、「天気予報」の信憑性を下支えしています。対照的に、願望パートでは、本当にそうなるか分からない晴予測の「天気予報」よりも、いつ終わるのか分からない「雨降りの今」の方が、「僕ら」にとってははるかに確からしいです。だから一層、「天気予報」を信じたり、<未来>に期待したりする余裕もなくなる。「雨降りの今」はそのまま<将来の見通しの悪さ>を暗示しており、「天気予報」の信憑性を疑わしいものにしています。
では、「天気予報」が現実の空模様よりも信憑性を失ってしまったのはどうしてでしょうか。
端的に、現代は<未来>を予測することが困難な時代に入ったからです。象徴的な出来事で言えば、シンギュラリティ(※1)、日本という地域柄で言えば多発する自然災害、アルバム発表から1年半後に発生したパンデミック。どれも事前には予測し難いことです。この全体的な大きな流れに並行する形で、個人の日常生活でも未来の予測は困難になっています。AIに仕事を奪われやしないか、明日病気にかかったりしないか、年金は貰えるのかどうか、今日作ったものは明日のトレンドにはあわないのではないのか、個人情報が漏れたりしないか、結婚はできるだろうか、昇進昇給はできるだろうか、、、こういう時代診断は、ビジネス用語ではVUCAと言われます。<未来>は今や、それがかつて約束していたように思われた<希望>をもたらすことはなくなってしまった(※2)。
「僕ら」が生きている時代は、雨が降り続けていて、やむ気配も見込みもない、だから、ただ、耐え忍ぶしかない。
サビの詞は、回想パートと願望パートが地続きで展開した悲観的な世界観も全部ひっくるめて背負っていく姿勢を大胆にも提示しています。
<時代>には<非連続性>があります。今の時代が前の時代と異なるのは、それぞれに特異点があるからです。多分、「雨振りの今」はずっと続くんだろう、「僕らが夢見た将来」や「僕らが憧れた未来」はこの時代にはきっと実現しないんだろう、でも、雨が降り止むとき、それはつまり、次の時代がやってきたときだから、その新しい次の時代には「ドキドキするような」「ワクワクするような」「未来」を実現させよう、「僕ら」や「いつか来る時代に憧れた彼ら」、「過ぎてきた時代を駆け抜けた彼ら」の期待や願いも全部背負って、みんなが憧れた「未来」を次の時代に築いていこう。
『天気予報』は、いわば、<希望という未来が失墜した時代の希望の歌>です。かつて<未来>が担った<希望>をこれからは「僕ら」が一緒に背負っていかないかい、と奮い立たせるのがこの楽曲のメッセージです。
表現
『天気予報』は、楽器の演奏がとても印象的です。
ギターは、雨のしっとりした感じ、虹やバブルのサイケデリックなニュアンスを主軸としつつ、強調するところではタイムマシーンの起動音やエンジン音、そして、それがどんな雨も避けて真空管の中をすーっと進んでいくイメージが表現されている。ドラムスは、ぱらぱらと降る雨の様子や、タイムマシーンが水飛沫を上げたり、主人公が泥の中をサクサクと歩いていくイメージが表現されている。ベースは、そうした不安定性を引き受けながら、それでもとどまることを知らない時代の大きな胎動を感じさせてくれる。
MVでは、主人公が宇宙服を着ています。地上世界と宇宙空間の行き来を可能にする宇宙服は、過去や現在、未来、そしてその次の未来という複数の時代の行き来を可能にするものとして描かれています。過去においてはそれが良い思い出でも悪い思い出でも引きずられないこと、現在においてはやまない雨から身を守ること、未来においては未知の世界の危険から身を守ること。パラフレーズの仕方は種々あると思いますが、この宇宙服はさまざまなインスピレーションを与えてくれます。
2:20〜、MVでは”SAFE ZONE”と書かれた看板に銃痕が点々とついてきます。<未来予想をもとに今は嘘つきだと現実を笑い飛ばすこと>で、楽しい<未来>を期待したり、苦しい<未来>に備えたりできた。そうして維持してきた”SAFE ZONE”=<安全地帯>が、銃撃によって今や無効になった。その直後には、背景の兵士も銃撃に倒れ、女性が膝をついて十字架に祈るシーンが描かれ、ギターは大きく歪んだサウンドに変わります。いわば時代の暴走を連想させるような作りになっています。この”SAFE ZONE”のカットは『天気予報』のMVのサムネイルにも使用されています。
そして、3:00〜、ボーカルの「覚悟はできているかい?」という歌と共に、”Are You OK?”という看板が現れます。1:00あたりで「←The Future」とあった看板が、2:05あたりで「←The Future?」というふうに書き換えられています。こうした方向性を失った時代、暴走した時代でも立ち向かうことはできるかい、と「君たち」に問いかけるシーンになります。この「君たち」とは、後ほど説明する、この楽曲の宛先人のことを意味しています。
4:05〜のドラムスの遊びの表現は、<つまずいてバランスを崩しながらも、なんとか転ばずに走り続けようとする姿勢>がビビッドに描かれています。これは、みんなが憧れた「未来」のために奔走する「僕ら」の様子を表現したものになっています。こうした<若さ>ないし<青臭さ>の表現は、羊文学の他の代表曲『1999』の中でもドラムスで披露されています。(※3)
『天気予報』と『若者たちへ』
『天気予報』は1stアルバム『若者たちへ』に収録された楽曲です。
『若者たちへ』の冒頭は象徴的な事柄の連続です。アルバムは、『エンディング』という楽曲で始まり、その次に『天国』という楽曲が続きます。前者のメッセージは「終わりを望む」、後者のメッセージは天国も「地上」も「大差ないね!」です。あえて象徴的な言い方で重ねるとすれば、『若者たちへ』は<終わりが始まりを告げる>という形で始められます。<望んで終わらせてみたのだけれど、天国って言っても地上とほとんど変わらないじゃない!>。そうして今度は、地上を舞台になんとか生きもがく青年たちの試行錯誤の物語が、それ以降の楽曲群で繰り広げられていきます。
そして、『若者たちへ』は、アルバムタイトルともリンクする『若者たち』という楽曲の次に『天気予報』が来て締めくくられます。このアルバムはもちろんのこと、『天気予報』の宛先は<若者たち>です。『天気予報』が伝えたかった、かつて<未来>が担った<希望>をこれからは「僕ら」が一緒に背負っていかないかいというメッセージは、ダイレクトに<若者たち>に向けて宛てられたものです。
ここで言う<若者たち>とは誰のことを指しているでしょうか。これは「僕ら」はもちろんのこと、「いつか来る時代に憧れた彼ら」や「過ぎてきた時代を駆け抜けた彼ら」というかつての<若者たち>も含まれます。それを示すように、MVに出てくる主人公の宇宙飛行士の正体は、実は、MVの最後に出てくるヘルメットを膝に抱えた老齢の男性であるかのように描かれています。<若者たち>であることに年齢は重要ではないのでしょう。あるいは、宇宙服があれば、私たちはいつでも<若者たち>になれるのかもしれません。
『天気予報』のメッセージを受け取った<若者たち>のひとりとして、それがいつになるかは分からなくても「ドキドキするような未来」を運べるようにしていきたいと私は思っております。みなさまはいかがでしょうか?
注釈
※1:技術的特異点。人工知能が人間の知能を超える時点のこと。以前は2045年ほどに来ると言われていたが、今では2025年ほどに来るのではないかと言われている。
※2:同様の世界認識を展開したものとして『The Dying of the Light』Noel Gallagher 2015 がある。
※3:同じく奔走するシーンに、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!大人帝国の逆襲』で主人公の野原しんのすけがタワーを駆け登っていくラストシーンがあります。