Je n'ai pas besoin d'une berceuse.

 時計の針の音が嫌に大きく聞こえる夜半過ぎ、何度目かの寝返りを打ったところでアレクサンドルは諦めて起き上がった。いくらかあった酔いもどこかへ去ってしまい、妙に鮮明な思考だけがぐるぐると渦を巻いてうまく形にならずに霧散していく。
 デスクに積まれた書類と書籍、ビールの空き瓶、置きっぱなしのマグカップ、脱ぎ散らかした靴、締め忘れたカーテンと窓から侵入する街灯の明るさ。
 不潔ではないもののさして清潔でもない見慣れた自分の部屋に足を下ろし、見当たらない室内履きは諦めて裸足で小さなキッチンへ向かう。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターの冷たさが喉を焼き、少しの頭痛を呼んだ。
 軽く呻りながらベッドに戻る途中、小さなソファの足元に放置された室内履きを雑に突っかけ、そのままぎしりとそこに腰を下ろした。なにがそんなに散らかっているのかもわからないテーブルの上を瓶で掻き分けてそれを置き、大きくため息をついたところで、まるでタイミングを見計らったかのようにノックが響く。
 こんな時間に誰のいたずらだ、と悪態をつきながらそっと扉を開き外を覗くと、そこにいるはずのない背広姿の男が笑顔で立っていた。
「な……、えっ?」
「静かに」
 シャルマンは〝shh〟と口元に人差し指を立て息をこぼし、開きかけた扉を押してさっさと内側に滑り込む。突然現れた男から目が離せないまま、アレクサンドルは早急に後ろ手で扉の鍵をかけた。
「……なんで?」
「そんな目で見つめないでくれ。今回はノックしたろう」
 ジャケットを脱ぎながら笑うと、シャルマンは軽く畳んだそれを先程までアレクサンドルが座っていたソファの背にかけた。
「そういう問題じゃないでしょう」
「そうかい?」
 悪びれず肩をすくめ、ドアの前から動かないアレクサンドルを気にも止めず彼が抜け出した形のままのベッドに腰掛ける。ぎしり、と、彼の住処(すみか)のそれに比べれば随分と簡素で粗末なマットレスがいつもの悲鳴を上げた。先程までアレクサンドルがそこにいたことを確認するようにシーツを撫でたシャルマンは、ためらいなく横になる。糊のきいたシャツやスラックスにしわが寄るのを見て、アレックスの眉間にもしわが現れる。
「……前も聞いたけど、どうやって入ってきてるんだ。この部屋まで少なくとも三回、鍵付きの扉と鉄格子がある」
「私にとって鍵はあまり意味がない」
「それはここでも有効なのか……」
「以前一度、君がここに招いてくれただろう」
「うん」
「それで十分だ」
 にこやかな告白はアレクサンドルのため息を呼び、シャルマンはその反応に愉快そうに目を細めた。
「君が私の訪問を拒絶すれば、次からは入れなくなる」
「……それは、俺が現状あなたを歓迎してるってこと?」
「そうとも言えるね」
「……」
「そんな顔をするな。嫌じゃないだろう」
 しわくちゃの顔を笑われながら扉から離れたアレクサンドルは、自室だというのに行き場なくソファのそばに寄り、座るでもなくその背にかけられたジャケットに視線を落とした。
「……訪ねてくるなら普通に来てくれ」
「昼間はそうしよう」
「そもそも、夜中に人の家を訪ねるのは」
「君がそれを言うのか」
「……仰るとおりで」
 アレクサンドルは両手を顔の高さに上げ降参の姿勢を見せると、もう言い返すことはないと口を閉ざした。少しの沈黙でも楽しそうに肩を揺らすシャルマンを、恨めしそうな視線だけで流す。
「眠れないんだろう」
「なんでわかるの、そんなの」
「なんとなくだ」
 君のことならなんでも、なんとなく、と言ってのける姿にまた少し顔をしかめ、何故かその場で立ったままのアレクサンドルは手持ち無沙汰に髪を掻き上げた。ベッドの上の悪魔は特に気にするでもなく、一人で勝手にくつろいでいる。
「……、なにか飲む? 酒と水以外なにもないけど」
 沈黙に耐えきれなくなりキッチンに向かおうとするアレクサンドルを、シャルマンはその後ろからスプリングの音を響かせながら制止する。気まずそうに「でも」と口を歪めるアレクサンドルの視線を、シャルマンは起き上がりながら受け止めた。
「酒もいいが、それより少しおしゃべりをしよう」
 ベッドに腰掛けたまま、呼び寄せるようにそのすぐ横を軽く叩く。
「おいで」
 窓から差し込む明かりだけの薄暗い室内でもそれとわかるほどに動揺し肌の色を変えたアレクサンドルが、一瞬固まった後にブンブンと顔を横に振った。それすらも愉快と言いたげなシャルマンが膝に片肘をついてアレクサンドルを見上げる。彼の凪いだ青い瞳は薄暗闇でもよく光った。
「君が眠れるまでそばにいてやろう。子守唄は歌えんが」
「なにそれ」
 まだ納得がいかない訝しげな様子でその場に立ったままのアレクサンドルが、顎を引いて片手で口元を覆う。少しの笑みを含んだ、呆れたようなため息が節くれ立った指の隙間からこぼれていく。
「心配せずとも、君が眠ったら帰るさ。私の寂しい夜のおしゃべりにほんのひととき付き合ってくれ」
 悪くない感触にもうひと押しと、シャルマンはアレクサンドルに言い訳を与える。これは誰のためでもなく悪魔のただの気まぐれなわがままだと、彼がそう納得するように。
 それでもまだ足りないと動かないアレクサンドルに、まるで彼が駄々をこねているとでも言いたげに「困った子猫だ」とシャルマンは笑った。
「……、そもそも、来てくれなくてもよかった」
「そんな憎まれ口を叩いて寂しそうな顔をするのなら、朝まで一緒にいよう」
「違う」
「君も思ったより寂しがりだな」
「違うって言ってるだろ……」
「いいから早くおいで」
「……」
 シャルマンは根負けしたアレクサンドルが室内履きのかかとを鳴らしてすぐ隣に立ち、勢いをつけてベッドに座るのを微笑ましげに見守る。勢いのままにそちらに傾いた体で軽く肩をぶつけ、楽しそうに控えめな声を上げて笑った。
「いい子だ」
「……自分のベッドに戻るだけだ」
「その通りだよ。つまりいい子だろう」
 なにを言っても埒が明かないと触れたままの肩を押しのけ、アレクサンドルはシャルマンを窮屈そうに避けて毛布に素足を潜り込ませた。ベッド側面の中程に腰掛けたままのシャルマンを、片膝を立てしばし窺う。シャルマンは視線に気付いていながら、緩やかに首をかしげて次の言葉を待っていた。逡巡の末、静かで気遣わしげな質問が飛ぶ。
「あなたは寝なくていいの?」
「私はいつでも眠れる」
 なんだそんなことか、と優しく笑ったシャルマンにアレクサンドルは拍子抜けしたように口元を歪め、そう、と短く返して体を横たえた。
「このベッドで一緒に眠ろうと思ったら、君をかなりしっかり抱きしめていないといけないし」
「一緒に眠ろうなんて言ってないだろ」
「私にはそう聞こえた」
「気のせいだ」
「そうかな」
 シャルマンは大人しく寝そべるアレクサンドルの顔に寄るように少し位置を変え、その乱れた柔らかい髪に指を通す。気恥ずかしさからくすぐったそうに毛布を引き上げ顔を埋める青年の姿にシャルマンが小さくなにかを呟いたが、その声は誰にも聞こえない。
 いくつかの小さく短い問答のあと、すぐに規則的で静かな寝息がその部屋を満たした。

タイトル日本語訳:子守唄はいらない

2022.02.07 初稿
2024.02.08 加筆修正