Tu fui, ego eris. 2

 太陽も人も寝静まる時間帯の凍える寒さと静けさに、アレクサンドルはコートのポケットにしまい込んだ手をぎゅっと強く握った。夜に吹く風はとうに冬のもので、アレクサンドルの髪を乱し体温を奪っては過ぎ去っていく。
 北の教会も墓地も同じく街の北側外れに位置するものの、その距離はさほど近くない。地図上は教会の西に位置するそこに行くためには、いくらか南下し市街地を通る必要があった。人目を気にしているわけではないものの、墓地以外になにもない方向へ進む姿を誰かに見られるのは時間帯的に少々厄介だなと考えながら、アレクサンドルはまばらになりつつある家屋に安心し始めていた。
「君はクリスチャンだろう。親族の墓参りは毎年しているのかい」
 すぐ隣を歩いているにもかかわらず寒さなど感じさせずにしゃんと背筋を伸ばすシャルマンが、途切れた会話の合間に問う。
「あー、うん。一応。仕事優先で諸聖人の日には行けないことも多いけど。今年もこないだ行ったばっかり」
「案外まめだな」
「いや、普段は全然だよ。忘れてるし。いつも行くのが遅いって怒られてから行ってる」
 アレクサンドルは傾斜の緩やかな石畳の上り坂を蹴るように歩きながら、いくらかバツが悪そうに答えた。
「君でもご両親に怒られるのか」
「ううん、ばあちゃん。俺、両親死んでるから」
「そうだったのか」
 シャルマンの簡素な返事はその情報自体になんらかの感情を抱いたわけではない事実を乗せながらアレクサンドルに先を促す。
「俺はもう全然忘れてるっていうか、記憶もあんまりないし。悲しいとかももうないし。弔う気持ちがないわけじゃないんだけどさ。どうも、後回しにしちゃって」
「そういうものだ。人は忘れる」
 ただ事実を述べているだけとでも言うようなシャルマンの語り口に、アレクサンドルはつまらない身の上話だっただろうかと窺うように視線を向けた。
「それが救いなんだよ。君たちにとっての」
 うっすら浮かべた笑顔は誰に向けられたものでもないものの、アレクサンドルの言葉を否定することはない。
「俺たち?」
「葬式も墓もそうだろう。区切りをつけるための儀式と、忘れないための、そして忘れゆく事実を許してもらうための印だ」
 墓地の外壁が近付き、坂道がいくらか険しくなる。それこそ散歩でもするようにのんびりと進むシャルマンは、読み聞かせの如くとつとつと語る。
「もしその人の声や姿を忘れてしまっても、それらを大切にすることで人間は慰められ、許されていると思える。いずれそれごと忘れてしまってもその存在が弔った証になる。君のお祖母様はまだ慰めが必要なんだろうね。そこに君が参加していなければ、彼女にとっての慰めは完全ではない」
 柔らかな笑顔は変わらず、今度はしっかりとアレクサンドルの方を向いた。小さく笑って、君も大切な印の一つで救いなんだよ、とつぶやく。
「……不思議だ。そんなふうに言われたの初めてだよ」
「そう?」
「親のこと言うと何故か謝られるか、忘れてるなんてって責められるかだから」
「何故」
「さあ。全然気にしてないから聞かれたら答えちゃうけど、いつも言ってから悪い気分にさせちゃったなと思って後悔するよ」
 いくらかふざけた調子でアレクサンドルが肩をすくめるのを、シャルマンは面白そうに見つめながら首を傾げた。
「君が悔やむことではないだろう」
「そうなんだけどさ」
 うまく説明できないから俺の話はもう終わり、とアレクサンドルが歩調を速めるのを、「せっかくまた一つ君のことを知れたのに」とシャルマンは速度を変えずに嘆いた。ずんずんと進んでいくアレクサンドルのわかりやすい姿を笑う声が後ろから聞こえ、その軽快な声はアレクサンドルを刺した。
「ねえ」
「うん?」
 乾燥した落ち葉たちが風に押され、石畳の上をカラコロと小気味良い音を立て滑っていく。アレクサンドルは平坦に戻った道を外壁に沿って歩きながら、聞いていいものだろうかとしばし逡巡し、数歩ほど後ろを歩くシャルマンを振り返らずに続けた。
「あなたは?」
「私?」
 見えてきた門扉は当然ながら閉じられており、街との間に冷たい「区切り」をもたらす。昼は外されている重たい錠が、夜は各々の眠るべき場所を分かつ。
「まだ区切りはついていない? それとも、ついたから来た?」
 アレクサンドルは自分がどんな顔をしてそんな質問をしているのか、少しも見当がつかなかった。複雑すぎる感情がただ体を前に進めることだけを許す。誰かが誰かに向けている感情を、たとえ間接的ながらその本人に聞くことがこんなにも恐ろしいなんて、これまで経験したことがあっただろうか。
 得体の知れない後ろ暗さは夜の空気がもたらすものだと無理やりしらを切り、まばたきを繰り返す。
「おかしなことを聞くね、君も」
「まあね。だいぶ染められてるみたいだ」
 軽い調子で帰ってきた声は深刻さを含まず、アレクサンドルのやましさ丶丶丶丶をなかったことにした。重くなく、軽すぎない空気にアレクサンドルはいくらか速度を落とす。
「私たちは忘れない」
 続くシャルマンの言葉を風に邪魔され聞き漏らさないように振り返ったアレクサンドルの前で、シャルマンはいつもどおりに薄く笑っている。
「区切りはなく、変化がいつまでも、緩やかに続くだけだ。もちろん程度の差はあるが」
 その足取りは変わらず軽やかで、二、三歩の大股ですぐにアレクサンドルの横に並ぶ。質問へ回答になっているだろうかと首をかしげてアレクサンドルを窺う姿は随分気安いが、質問した張本人はその言葉の意味をあまり良いものとは受け取れない。
「つまりずっと悲しいってこと?」
「いいや。そうとも言い切れない」
 いつものことながら、晴れやかなシャルマンの表情は亡くなった誰かを偲ぶというよりも、最近会えていない最愛の友人を語る色が強い。
「彼の魂は自由で、私の中の彼は風化しない」
 暗闇でもどこからか光を拾ってきらめいたシャルマンの青い瞳が柔らかく滲む。
「……それは、どういう意味」
「肉体を失っても、彼は私の記憶の中にある。その記憶に彼を喪った悲しみの感情は付随しない」
 アレクサンドルは、まるでいつでも会えるかのような近しい語り口と空気がそうして生まれていると知る。それが喜ばしいことだと肯定しきれない理由をうまく説明できぬままに、思考自体を掻き消しまた質問を重ねた。
「……ふうん。じゃあなんで墓参りなんて」
「彼の魂がどこにあろうと、どんなに記憶が鮮明だろうと、肉体はそこにあるのだから会いたいと思うよ。人が、壊れて元に戻らないとわかっていても手放せないものがあるのと一緒だ。『執着』、とも言うかな」
 少し大仰な話し方は照れ隠しか、自虐かもわからない。それならば何故これまで一度もここを訪れなかったのかというアレクサンドルの疑問は、吹いた風に邪魔され言葉になるタイミングを失う。
「……そう」
「それに、これも変化の一つだ」
「なにが」
 一層くすぐったそうに笑い、シャルマンは前に進む。たどり着いた門扉の錠を鍵もなく外し、錆びた音を立てて揺れる扉を押した。男のためらいのない一歩が音に怯んだアレクサンドルを引っ張り誘い込む。眼前に広がる墓地は先程までと変わらずひらけているはずなのに、日常から離れた緊張感が屋根となり空気を重たく錯覚させた。すぐ側の鍵開けが得意丶丶丶丶丶丶な男の存在が非日常を助長するが、アレクサンドルにはこの場ですがれる先もその人しかいない。青年の妙な心のざわめきを薙ぐように男が平然と話を続ける。
「彼との約束なんだ」
「……墓参りするのが?」
「いや、違う」
 後ろ手に閉じられた扉が最後の音を立てた。説明の少なさはいつものことと諦めながらもその先を促そうとアレクサンドルがシャルマンを見やると、彼はすでに広い敷地の奥へと視線を向けていた。
「さて、この中から探さなければならないが」
「えっ、どこだか知らないの」
「知らないね。来たことがないと言ったろう」
 あっけらかんと片眉を持ち上げる姿に悪びれる様子は一切なく、アレクサンドルを呆れさせる。
「一つずつ見ていたら夜が明けてしまう」
 だから俺を連れてきたのかと肩を落とすアレクサンドルを笑って、それも面白そうだと背を叩いた。顔をしかめるアレクサンドルを無視してシャルマンはすぐに歩き始める。立ち止まったままのアレクサンドルを少し先で振り返った男の目が、一瞬赤く光ったように見えた。
「大丈夫」
 見間違いかとアレクサンドルがまばたき、注意を向けたときにはすでにシャルマンは背を向けていた。アレクサンドルは迷いなく進んでいく男のあとを置いていかれないように追う。
「魂と肉体は引き合うものさ」
 風に乗って届くその声が真実か冗談か、アレクサンドルには知りようもない。

2022.05.03 初稿
2024.02.08 加筆修正