私のかわいい子猫ちゃん 15
官舎の入口を潜ったアレクサンドルが中庭に面する管理兼守衛室に軽く挨拶の視線を飛ばすと、馴染みの顔が驚いた様子で立ち上がった。
「おい、生きてたか。よかったよかった。あまり年寄りを心配させるのはやめてくれよ」
普段は年寄り扱いすると激怒するその人が安心したように大声で笑う。疲れてんだろ、さっさと行け、と追い払われたかと思うと、その人はすぐにどこかに電話をかけている様子だった。アレクサンドルがいつの間に殺されたんだと思いながら中庭を進み共同玄関のロックを解除していると、すぐ横の窓から同僚のベンが上半身を乗り出した。
「アレックス! お前どこ行ってたんだ!」
部屋にいないことなど珍しくないにもかかわらずどうやらそれを責められているらしいと察し、扉を開きながらアレクサンドルは顔をしかめた。屋内に入って早々共有リビングから出てきたベンに肩を叩かれ組まれると、部屋に向かう体を足止めされる。
「なんだよ、疲れてるからあんまり……」
「なんだよとはなんだ。お前、あんなことがあって帰ってきてないってなったらそら心配するだろ」
「あぁ、そういうことか。ごめん……」
重たい体を押しのけてなんとかどかそうとしながらも、なるほど確かに、といたたまれない気持ちも湧いた。アレクサンドルはそれどころではなかったという本音を押し留め、今の今まで職場で気にかけてくれている人たちの存在をすっかり忘れていたことに対して素直に謝罪の言葉を口にする。
「ほんとどこ行ってたんだよ、甘いにおいさせやがって。女のところか?」
「いや、まさか。……教会に」
「教会!」
感心と驚愕の声がすぐ横で上がった。あまりのリアクションの大きさに、嘘ではないものの突っ込まれたらボロが出る、とアレクサンドルの背中がいくらか冷たくなる。
「そうか、……お前、クリスチャンだったもんな。教会か、なら仕方ないな……」
乳香の香りにしては甘いな、とすんと鼻を鳴らすベンをやっと突き放し、石鹸の匂いじゃないかと適当にごまかした。早々に部屋に戻ろうと廊下を進むアレクサンドルを、ベンは後ろについて追いかける。
「夜も帰った様子なかったし、あのまま失踪したんじゃないかってヒヤヒヤだったよ」
「……悪かったよ。連絡も入れず」
「……あー、ごめん、怒ってるわけじゃないんだ。心配して」
アレクサンドルの疲労を多分に含んだ声音に怒気を感じ取ったのか、階段の手前でベンは立ち止まった。手すりに手をかけながら振り返ったアレクサンドルの目には、図体のでかい男が肩を落とし機嫌を窺うようにこちらを見つめる姿が映る。
「大丈夫、わかってるよ」
同じくアレクサンドルも立ち止まり、誰もが経験し、あるいはする可能性のある自分の境遇に共感し心を寄せてくれているのであろう事実を受け止めた。
「……、少しは元気出たか?」
「ああ、大丈夫。心配かけた」
アレクサンドルが適当に笑って肩をすくめてみせると、ベンは安心したようにため息をつく。
「ボスも気にしてたぞ」
「後で電話しとくよ。ありがとう」
短い挨拶を交わし、アレクサンドルは昨日に比べ随分と軽い体で階段を登った。
2022.03.17 初稿
2024.02.06 加筆修正