ぬるま湯
目を開けても、そこにはぼんやりと霞む天井と、自分の髪や鼻や口から立ち上る気泡しか見えない。規則正しい心音とやけに響く水の揺れる音以外はなにも聞こえない。温かく浮遊する、夢の中のような空間。それほど長くない間だが、アレクサンドルが思考に沈み込むには十分な時間があった。ぬるく柔らかい膜につつまれる、息苦しさを忘れる瞬間だった。
広いわけではない浴槽の中、揺れる視界の先に、突然赤く光る瞳が飛び込んでくる。なんのためらいもなく膜を突き破って差し入れられた冷たい手が素肌に触れて、のどかな悪夢から目覚めさせるようにアレクサンドルを引き上げた。
水しぶきが騒がしくあたりを彩る。それはいつかの騒音にも似ていた。
「おや、記憶に呑まれた顔をしている」
細く、長く、息を吐き出しながら風呂に沈んでいたアレクサンドルの顔にかかる髪をよけて、シャルマンは至近距離で目を合わせる。アレクサンドルの瞳はまだ膜の向こう側から戻ってこない。
溺れていたわけではない呼吸と、比喩ではなく全身風呂に浸かっていたはずなのに冷たい首元を確認し、シャルマンは肩を支えながら風呂の栓を抜く。ばたばたと髪から滴る湯を払いのけるようにアレクサンドルの顔をなでた。
「あの日の夢を見ているのかい」
早急に減る水嵩に冷え始めた体をシャルマンが持ち上げると、アレクサンドルは抵抗なく立ち上がった。何度かまばたきを繰り返し、目が合う頃には頭からタオルが被せられている。
「シャルマン?」
「私は君のその姿も嫌いではないよ」
手を引かれてバスタブから出てくるアレクサンドルは、寝ぼけているかのように事態を把握できずにシャルマンを見つめた。
「他の人に見せないのなら、だが」
「濡れてる」
「ノックをしても返事がないから邪魔をしに来た」
へらへらと笑うシャルマンに、そう、と状況のつかめていない気のない返事をして、アレクサンドルは被せられたタオルに埋もれた。髪と顔を一通り拭いて、シャルマンから渡されたバスローブに素直に袖を通す。
「美しい私の子猫」
アレクサンドルが濡れないようにか、すでに色の変わった服を脱ぎ捨て同じくタオルを肩にかけたシャルマンがアレクサンドルの首元に手を差し込んで襟足を撫でた。
「いつだって、時代と場所が人間の価値を左右してきた」
くすぐったそうなアレクサンドルの反応に満足気に笑うと、そのまま首を掴んで引き寄せる。たたらを踏むアレクサンドルの顔を両手で包んで支えると、緩やかに顔を拘束し目を覗き込んだ。
「君の行いはある場所ではたかが女のために男を殺した重罪、ある時代では一人の女性を命をかけて救った英雄だ」
「シャルマン、俺……」
「君が自分をどちらと考えるかは知らないが、うぬぼれてはいけないよ」
諭すような低い声は浴槽の中で聞く心音に似た響きで、アレクサンドルに耳を澄まさせる。シャルマンはアレクサンドルを包むタオルに顔を埋め、シーツの中で秘密を打ち明け合う子供の無邪気さと、情事のあとの男女の湿っぽさを混ぜ込み小さくささやいた。
白いタオルが二人の顔に明るい影を落とす。
「君はただの、私のかわいい子猫なんだから」
少しの間触れて、すぐに離れていくシャルマンの唇の熱の心地良さは、アレクサンドルを従わせる。
「よく覚えておいて」
「……うん」
「いい子だ。早くベッドにおいで。私が凍えてしまう」
「うん……」
まとめてくしゃりと混ぜられたタオルと髪で、アレクサンドルの視界からシャルマンの顔のほとんどが見えなくなってしまう。わずかな隙間から覗き見えた口元には笑みが浮かび、アレクサンドルはそのことに安堵と満足を覚えた。
2022.10.17 初稿
2024.02.08 加筆修正