Le chaton dormait paisiblement à ce moment-là.

 まだ日が昇りすぐの頃、教会の広い廊下に重たい足音が二人分響く。朝のミサを控えた時間のせいか、声音はいくらかいていた。
「こんな時間に会いに来る友人など……」
「しかし、身なりもしっかりしていて、無礼な方ではありませんでした。ミサの前に、少しだけとおっしゃられて」
 多少苛立った司教をなだめる焦った様子の司祭は、先導するように応接室へ向かいながら続ける。
「『北の旧友が会いに来たと言えばわかる』と……」
「……お前、まさかアレ丶丶を入れたのか!」
 目に見えるほどに狼狽し始めた司教に怒鳴られ、司祭はその勢いに立ち止まった。その声は廊下に響くほど大きかった。すぐに司祭を追い越し応接室のドアノブに伸ばされた司教の手は、触れる直前でぴたりと止まる。
 かすかな音を立てて扉が揺れ、軋みながら扉が開いた。司祭にはそれが見えていないようで、怪訝そうに質問が送られる。
「……司教、『アレ』とは?」
「お前の慇懃いんぎんさは変わらんな」
「……!」
「それにしては、かなり老けた」
 突然飛んできた嫌味と直球な悪口に、司教は扉の奥をにらみつける。客人が部屋の中から扉を開けたものと考えた司祭が慌てて扉を押えに行くも、ダブルブレステッドのスーツをきちりと着込んだ紳士はソファにかけたまま楽しそうに笑っていた。
「貴様……!」
「しばらく顔を出さずすまないね。なかなかどうも、お前たちの時間の流れには慣れなくて。死んでいなくてよかったよ」
 珍しいまでに感情を露わにする司教にひるみながらもこんな姿を見られてはまずいと判断した司祭が、司教を部屋に引き入れ扉を閉める。変わらず笑顔の紳士はそこの主であるがごとく自然と司教に着席を促すも、部屋に入ってすぐの位置に立つ司教は一切動かない。
 司祭から送られた弁解の余地がないという視線に、紳士は仕方がないと軽くため息をついた。
「久しぶりだというのに、座って話もできないほどお前は偉くなったのか。めでたいな。お祝いの品でも持ってくるべきだったか」
「こんな時間から何の用だ。ここは貴様の来る場所じゃない。早く出ていけ」
「私の心配をしてくれているのか、ありがとう。しかし、距離も時間も場所も、私には問題にならないと知っているだろう。こうしている間にたった数分、私の前に座って話すこともままならないお前とは違ってね。気楽なものだよ」
「この……っ」
 部屋に案内した際の物柔らかで優しい雰囲気はそのままに嫌味を繰り返す紳士と、徐々に顔色が鈍く赤くなっていく司教に挟まれ、司祭は青くなって壁際による。朝から何が起こっているのか、巻き込まれた司祭には状況が一切把握できなかった。
 正反対の二人の聖職者の様子を気にも留めず、部屋を訪れてすぐに出されたコーヒーカップを持ち上げながら紳士は話し始めた。
「いやなに、面白い話を聞いたからぜひ知己と共有せねばと思ってね。そんなに見つめないでくれ。好きになってしまうよ」
 怒気のこもった顔で紳士をにらみ続ける司教におびえるのはなんの関係もない司祭ばかりで、紳士は優雅な仕草でそれを受け流している。あえて時間を間延びさせるゆっくりと丁寧な、それでいて気さくな話しぶりと、それに相反する空気の重たさに、司祭は頭を抱えて逃げ出したいのを必死でこらえていた。
「聞いた話によると、どうも、我が家丶丶丶が近々騒がしくなるようで。お前は何か知っているかい?」
 テーブルに戻されたカップが立てた小さく高い音が、誰かの悲鳴のようにも聞こえた。
「……白々しい」
「いまさら自己紹介か? 何年の付き合いだと思っている」
 苦渋の表情で目を逸らす司教とその姿から目を離さない紳士の強い視線が、部屋の温度を下げ、時間を止める。妙に光って見える紳士の目をただ見ているわけにもいかず、司祭はなにもできないまま動いているはずの時計の針の音を聞いていた。
 さっさと部屋を出てしまえばよかったと、かつてない後悔が司祭の腹の底に重石を積み上げていく。
 突然、時間の動きを思い出させる朝の鐘が響いた。
 ミサの始まりを予告する鐘に、司祭は救いの声を聞いた。
「……失礼。そろそろおいとまするとしよう。実は昨晩、子猫を拾ってね。うちに寝かせてきたんだが、じきに起きだす頃合いだ」
 盛大なため息とともに司教らの解放を告げた紳士の言葉には、そうとわかるほど慈愛がにじむ。
「少しおびえた顔をしていたが、なかなかかわいいんだ。澄んだきれいな瞳をしていて、だからかな。お前と違って、どうやら彼は私が見えるようだ丶丶丶丶丶丶丶丶
 からかいや嘲笑を含む紳士の言葉尻にどういうことだと司祭が司教を窺うが、司教は冷や汗を流しうつむくだけだった。紳士は反応のない司教に呆れたように眉を上げると、ソファに置いたハットを持ちおもむろに立ち上がった。
 紳士がのんびりした足取りで革靴を鳴らし扉に向かう。導線上に立つ司教をぎりぎりで避け、肩をどかすように軽く叩きながらさわやかに笑った。
「セーターの毛玉取りくらい有意義な時間だったよ。感謝する。目障りになる前にやるに限ると再確認できた」
 司教の耳元に顔を寄せると、嫌味なほどにつやを乗せた声を響かせる。
「また来る。もちろん、お前次第だよ」その甘ったるい声音は拒絶を認めない。「悔い改めなさい」
 屈辱に鳴った喉の音すらお決まりの台詞にかき消され、完全に固まり動かなくなった司教の肩が再度二、三回叩かれた。紳士は変わらず笑いながらドアを開き、ふと司祭を振り返る。柔らかい笑顔は当初司祭が応接室に案内した時のまま、帽子をかぶる所作も俳優のように様になっていた。
「そこの君、コーヒーおいしかったよ。ありがとう」
「……おっ、お送りしますっ」
「結構だよ。それじゃあ」
 置いていかないでくれという心の声は届かず、呆気ないほど静かに閉じた扉に司祭が駆け寄りノブに手をかけると、それまで黙り込んでいた司教が怒鳴った。
「放っておけ!」
「しかし……!」
 焦って飛び出した先の廊下は静かなもので、誰の影も見当たらなかった。走り去ったにしては、その足音すら聞こえない。
「えっ、そんな……」
「……おい」
「はい?」
「お前、アレ丶丶の目の色を見たか?」
 何故そんなことを聞くのか、今はそれどころではない、ミサももうすぐに始まってしまう、と混乱する司祭は、司教の機嫌と顔色の悪さに気付けずに答える。
「目の色? いえ、ええと、どんなだったかな……随分と整った顔立ちのほうが印象的で。目が合った記憶はありますが……」
「……、もういい。行くぞ」
 時計を確認した司教は廊下に出て、舌打ちを打ち消すように応接室の扉を乱暴に閉めた。足早に来た道を戻っていく。
「あの、彼は一体?」
「忘れろ」
「え……?」
「アレにはかかわるな。いいな」
「……、はい」
 司教の脳裏には、何年も前に死んだ人間の、軽蔑と嫌悪のこもった声がよみがえる。「あなたたちは彼の目の色もわからない」と吐き捨てられた台詞が今なお呪いとなりわだかまり続けているのを、あの悪魔は理解している。
 一日以上かかるはずの離れた教会から一晩もかけずに大聖堂を訪れたそれ丶丶が、自らの失態を知らせた。無力を突き付けられたその足で向かうミサで、一体なにに感謝し救いを説けというのか。
 司教と司祭が抱えたままの苦く複雑な感情は、定刻を知らせる鐘の音に紛れて姿を消した。

タイトル日本語訳:その頃、子猫はぐっすり眠っていた。

2022.09.04 初稿
2024.02.02 加筆修正