私のかわいい子猫ちゃん 3

 向かった先が司祭館の玄関ではなく聖堂だったのは、自分に対する言い訳のためか。先日の邂逅から二度目のその空間に相変わらず若干の緊張を覚えつつ、アレクサンドルは重たい扉をくぐり先に進む。響く靴音に前回ほどの強張りはないものの、肺を満たす重量のある空気は相変わらずだ、と浅い呼吸を繰り返した。前回と同様に、しかし前回よりもよほど深刻な出で立ちでクロッシングの前で立ち止まり、そのまま力が抜けて崩れ落ちるように両膝をつく。
 スラックス越しに膝から伝わる冷たさもぼやけるほどに身体が軋み、全身を支配するしびれとも痛みともつかぬ感覚を受け入れうなだれる。息を整えるように二、三度震えるため息を吐き出し、知らぬ間に横に落としていたジャケットを拾うこともせずにアレクサンドルは目を閉じた。
 少しの間何も考えず、ただ自分の呼吸の音だけを聞いた。そうしているうちに、どこかの扉が開く音ののち、嗅ぎ慣れない埃っぽさの中に親しみつつある甘い香りが混ざる。
「どうしてわざわざこちらに、と思ったら、随分ひどい姿だ」
 現れたシャルマンは特段焦る様子もなく、深刻さもない口調でそう言いながらのんびりと翼廊を歩いてくる。
 前回と違いそんなに心臓に悪くない登場だ。のんきにそう考えている自分は意外と大丈夫なのではないだろうかと、アレクサンドルはその姿を気だるそうに持ち上げたまぶたの奥の瞳だけで追う。
「君は夜の教会が好きなようだね」
 アレクサンドルの目の前でかかとを鳴らして立ち止まったシャルマンは、ごく自然な仕草でジャケットの前ボタンを外した。無理やりに見上げた顔は逆光か、かすむ目のせいか、アレクサンドルからはぼやけていてはっきりしない。
「今度こそ神をご所望かい」
 低く、よく響く声で問われた言葉が聖堂に満ちる。
 シャルマンはゆったりと片膝をつき、アレクサンドルの顔に触れた。近付いたいつもと変わらぬ調子の柔らかい微笑に安堵しながら、その手がいつもよりも熱く感じるのは自分が冷えているからだと思い至るまで、アレクサンドルはそのままじっと心地良い熱を受け入れる。
「この教会に神はいないんだろ」
 自身が思っていたよりもかすれて響いた声にアレクサンドル自身が不愉快そうに顔をしかめ、頬を撫でる手から逃れるのも億劫という様子でくたりと頭の重みを預けた。珍しく拒絶も恥じらいもしないどころか甘えて見せる姿に一度愉快そうに鼻を鳴らしたシャルマンは、油断すると手からすべり落ちてしまいそうなその顔を掴み、持ち上げて覗き込むように視線を合わせる。薄く暗い瞳はいつもの面影もなく冷たく沈んでいる。
「その通りだよ。司祭ももういない。だから告解はやっていない」
 わかっているじゃないか、とくつくつ喉を鳴らしながらも慈愛を込めて目を細めるその姿に、アレクサンドルは絡まって動かない思考と縛られるような全身の痛みが徐々にほどけていくのを感じていた。
「だが、君が求めるのが私の赦免丶丶丶丶というのなら話は別だ」
 空いた手でアレクサンドルの顔を覆う髪をよけ、撫で、梳く。汚れて固まる髪など世辞にも感触はよくないが、それでも子猫を愛でる柔らかな手付きでそれは繰り返された。アレクサンドルは求めていたものを与えられたかのごとくそっとまぶたを下ろす。
「君の祈りくらいは私が聞いてあげよう」
 触れたところから伝わる熱を享受し、アレクサンドルは朦朧とし始めた頭でその声に耳を澄ませる。
「お決まりの祝詞は飛ばそう。私はクリスチャンではないし、誰の代理人でもない。神は今この瞬間は部外者だ。だから神の声に心を開く必要もない。君はただ私のことを見て。私の声を聞いて」
 アレクサンドルはゆっくりと目を開くと、いつからか赤く光るシャルマンの瞳を言われたとおりに見つめる。逃しはしないと伝えるかのようにしっかりと視線を絡め取られた。淡い色のまつげに縁取られた目は、その要望に応え逸れることはない。
 美しい色だ、と思ったのは果たしてどちらか。
 シャルマンは満足気に笑むと、アレクサンドルの真っ青な目元を親指の腹で撫で、続ける。
「いい子だ」
 褒める声は、アレクサンドルがこれまでに聞いた誰の声よりも甘い。
「私のいつくしみに信頼し、君の罪を告白しなさい」
 ごく自然に、なんでもないことのように、しかし甘さを含んだ声で、自らを悪魔と称する男が言う。聖堂に響く声は静かで、何よりも心地良い。
「人を、殺した」
 誘われ、先程よりもはっきりと、ボロボロの青年は挨拶をするように自然な声色で告白した。

2021.11.17 初稿
2024.02.04 加筆修正