北の教会にて 4
「北地区のヘルプの件、なくなったってよ」
同僚からかけられた声に手を止めると、当番明けで生あくびを繰り返すアレクサンドルはそちらに振り返る。
「なくなった?」
「そう。せっかく人員もシフトも調整したのに、計画中止だとさ。お前、この件気にしてたろ」
だからシフトは元通り、一時間後に再調整のミーティング、と残業確定を告げアレクサンドルの肩を叩いて去っていく同僚を呆然と見ながら、手にしたペンを落としそうになり慌てて持ち直す。
数日前に訪れた教会は、何日かのちに取り壊しの工事が始まる予定だった。街の教会から警備の要請を受けていた北地区所轄署が人手の薄さを理由に各地区に人員ヘルプ要請を入れたのは随分前の話で、順調に進んでいれば翌週にも何人かの同僚がそちらに合流し、併せて調整のために管轄地区の巡回範囲が一時的に変わるはずだった。
――彼だ。
アレクサンドルは間を置かずにそう結論付け、くしゃくしゃと髪を掻き混ぜる。あのあとそういえば名前も聞いておらず鍵もそのまま持ってきてしまったと気付き、取り壊される前にもう一度行かなければどこかへ消えてしまうだろうと思っていたが、どうやらその心配はなくなったようだ。
おそらく自分のせいであろう「計画中止」の知らせを受けたにもかかわらず感情の大半が安堵で占められていることに、理由もわからないままアレクサンドルは短くため息をついた。
「こんにちは。今日は明るい時間に来たのか。お休みかい?」
「……夜勤明けで」
教会に隣接する居住区、司祭館の玄関を叩くと、それほど待たずに扉が開かれた。扉にまとわりついていたいくつかの南京錠は事前に外し、アレクサンドルの手の中にある。さわやかに挨拶しそれを見た男は、何も言及しないままひどくうれしそうに目を細めた。
「それはご苦労様。寝ていなくていいのかい」
「仮眠は取ってるんで」
アレクサンドルは仕草で促されるまま中に入り、すれ違う男の甘い匂いになつかしさのようなものを抱いたことに複雑な感情でむすりと一瞬眉根を寄せる。対する男は機嫌良く笑い、アレクサンドルから受け取った錠をガチャガチャと玄関横のチェストの上に放った。
「思ったよりも早く来てくれたね」
「……これを返すのを忘れていたから」
今しがた使用したばかりのスペアキーの束をつまんで差し出すと、男はアレクサンドルと鍵を交互に見つめて不思議そうに首をかしげてみせる。
「返す? 君のだろう」
「でも、この教会の鍵だ」
なるほど、と声にしながら、一向に受け取ろうとはしない。その様子にアレクサンドルはまた眉根を寄せると、所在なげに上目で男を見つめた。じっとその姿を見返し、男がうんとうなずく。
「それは君が持っていなさい」
「えっ、どうして」
言い終わると、男は庭に面した客間と兼用らしきリビングにアレクサンドルを通す。鍵を持ったままのアレクサンドルに、すぐ横から目を細めて笑いかける。
「君が私を閉じ込めてしまいたいときにはそうするといい」
なにを、と言いかけ、その表情とささやくような声音の優艶さに知らずアレクサンドルの耳が熱くなる。ぐんと近付いた香りにぐっと喉を詰まらせた。
「……冗談だ」
男はうふふと笑い、固まるアレクサンドルの背を押して臙脂の長椅子へ誘導する。ストンと腰を落とす姿を見て、先日の教会でのティータイムの際と同じく満足そうにうなずいてキッチンへと姿を消した。同じく呆然と座ったままのアレクサンドルは手に残る鍵を落ち着かない様子でもてあそび、諦めたようにジャケットのポケットに突っ込んだ。
「紅茶でいいかい」
少し離れたところから聞こえる声に、どうせ紅茶しか置いていないだろうに、とアレクサンドルは肩の力を抜いた。先日を繰り返すやり取りにかすかに笑みが浮かぶ。返事をしようと口を開いたところでひょこりと男が姿を見せ、アレクサンドルの表情に嬉しそうに口角を持ち上げた。
「コーヒーも準備した」
一転して虚をつかれた顔をするアレクサンドルを見てくつくつと喉を鳴らすと、なにがいい、と改めて優しく問いかける。
「あー、……こないだの、夜に淹れてもらった紅茶がおいしかった、です」
あまりにも自然で柔らかな空気に驚きと恥ずかしさで熱くなる顔をごまかすように、アレクサンドルは目を逸らし片手で口元を覆って顔を揉んだ。その様子を見てか、男がまた喉を鳴らすのが聞こえた。
「気に入ったようで何よりだ。君とは好みが合いそうだ」
準備に戻るらしい後ろ姿を横目に認め、調子が狂うな、とアレクサンドルは整えてきたばかりの髪を片手で乱す。はらりと顔にかかる前髪に我に返り手を止め、またやってしまった、と適当にそれを耳にかけた。
それほど待たずして銀のトレーを持って現れた男は、相変わらず手際よくテーブルに食器をセッティングしていく。パンプレートに並べられた焼き菓子が先日の様子よりも随分と彩を豊かにしていた。
「イタレリツクセリ……」
「なに?」
小声でカタコトとつぶやいた言葉を拾われ、アレクサンドルは慌ててなんでもないと否定する。
男は不思議そうにしつつも準備を終え窓際に置かれた肘掛椅子を軽く持ち上げて運んでくると、アレクサンドルからそう遠くない場所に位置取り腰かけた。前回と同じような距離感で、前回よりもくつろいだ様子で背もたれに体重を預けている。
「こないだ教会に行ったって、取り壊しの話を止めに行ってたんですね」
礼を述べてからカップに手を伸ばしたアレクサンドルが話を切り出す。
「別に、君が心配するような物騒なことはしていないよ。私が誰で、ここが誰のものかをきちんと話してきただけだ」
「物騒だなんて……」
アレクサンドルは今よりよほど緊張していた前回に比べてしっかり感じられる紅茶の香りに満足しながら、今日はおかわりをもらってもいいかもしれない、とミルクも砂糖も入れていないそれに口をつける。甘い香りがいくらか残る緊張をほどいていく。
「この教会に私が住んでいると知らない人間も増えた。最近は外にも出ていなかったし、しばらく顔を出さなかったから調子に乗ってしまったようだ」
「しばらくって?」
「さあ、どれくらいだろう。五年か、十年くらいかな」
「じゅう⁈」
詰まりそうになる喉を咳払いでごまかし、これも冗談かもしれないとアレクサンドルは次の言葉を待つが、男は変わらずにこにこしているだけだ。
「……それで、十年ぶりに顔を出して、取り壊しに反対してきたと」
「反対?」
アレクサンドルの言葉に男は一瞬不思議そうな顔をして、少し違うな、とまじめな表情でニュアンスを訂正する。
「私はただ座って、面白い噂話を聞いた、と話してきただけだ。さっきも言ったとおり」
そう話す姿は随分楽しそうで、同じように振る舞っていたであろう場面を容易に想像させた。嘘か本当かは別として、彼を「悪魔」と知る人がそれを目の当りにしたらどう思うのだろうか。計画の中止を決定できるような立場の、会ったこともないその人の冷えていく体とにじむ嫌な汗の感覚を自分のことのように思い浮かべ、アレクサンドルが顔を引きつらせる。朝からそんな訪問者を相手にしてしまったら、その日一日を乗り切れる気がしない。
「それはまた難儀な……」
「なにも難儀ではないよ」
相手の側に立ち頭を抱えるアレクサンドルを前に男は一切の悪気なくけろりと言ってのけ、自分のカップにミルクを足していく。
「どう思っていたか知らないが、幼い君が恋した相手はこういう男だ」
「やめてくれ。それこそ子供のころの話だ」
男は突然自分の話に戻され目に見えて狼狽するアレクサンドルを面白そうに眺め、でも君はその相手を探してここに来たじゃないか、と続けた。
「……子供の頃の憧れに決着をつけたいと思う気持ちはだれしも少なからず持っているものでしょう」
「君は勇敢にも、それを実行に移した。立派じゃないか」
投げやりに答えて不服そうにソファにもたれたアレクサンドルにミルクポットとパンプレートをそれとなく寄せ、男はソーサーを持ち上げる。
「女々しいともいうかな」
紅茶の豊かな香りにか、アレクサンドルの女々しい行為にか、ふふふとつややかに笑いながらカップに口をつける。横目で見られているのを知りながら、男は目を合わせようとしない。
「幻滅した?」
男からこぼれた言葉は今までと同じくはっきりした声で、しかしそれとは相反するようにまるで自分の評価を気にするようなものだった。まったくそんな素振りもない振る舞いと声音のせいで、アレクサンドルはそこに込められた真意を窺えない。
「……いや、まだ整理はつかないけど、……そんなにネガティブじゃない」
アレクサンドルが長く深いため息を吐き出しながら諦めたように白状すると、男は目を細めて静かに笑む。
「それはなによりだ。多くの恋の終わりは呆気ないものだからね」
「恋、と言っていいのかわかりません。憧れが一番近かった」
「今は?」
背もたれに頭ごと預けた顔にさかのぼるように熱が集まり、アレクサンドルは羞恥で口がゆがむのを隠すように両手でそれを覆う。
「幻滅は、してないんですって」
「君は本当に素直だな」
「こういうのは、それこそ嘘をつくべきではないでしょう……」
「かわいらしいな」
ばかにした様子など少しもない静かな返事に、指の隙間から薄いブルーの瞳で男の姿を覗く。穏やかな笑顔でこちらを見つめる姿は、昼間の明るさに溶けてとても美しい。
「君に思われ続けるなら、それがどんな感情でも私はかまわないよ」
恥ずかしげもなくそう言ってゆっくりと息を吐き、独りごちるようにつぶやく。
「気持ちを忘れ去ることが最も悲しいからね」
「なに……?」
「なんでもない」
男はにこりと笑うと、カップを口に運ぶ。前回と変わらずペースが狂うな、とアレクサンドルはまた髪を掻き上げた。ここを訪れた当初の整えられた髪型はもはや原形を留めておらず、それを見て男は愉快そうに首を傾ける。掻き上げた後にああまた、と動きを止め、わしわしと適当に直して素知らぬ顔をする青年を、物珍しそうに観察する。
「……質問しても?」
「なんでも」
答えるかどうかはわからないが、とぱっと雰囲気を切り替えて返事をした男は、ソーサーごとカップをテーブルに戻し、プレートからクッキーを一枚つまみ上げた。
「あなたの名前を聞いていない」
「名前。そうか。そうだな」
男はなぜか一度思案するがごとく視線をさまよわせ手に持ったクッキーを振り、思い出したようにアレクサンドルに向き直る。
「シャルマン。多くの人は私をそう呼ぶ」
シャルマン。魅力的。
そうアレクサンドルが不思議そうに繰り返すのがおかしいのか喉を鳴らして笑い、手元のクッキーを食むとこくんと飲み込んで続ける。
「なかなかいい響きだろう。君もそう呼んでくれ」
「その名前を呼ぶのは恥ずかしい」
「そう? 呼ばれる側は悪くないよ」
その名の通りの表情でまっすぐにアレクサンドルの瞳を射抜く姿は、最初に誰がそう呼んだのか、少しも違和感はない。
「君が名付けてくれてもかまわないよ」
「それは、……さらに難しいな」
君は存外文句が多くてわがままだなと笑う男にアレクサンドルが顔をしかめると、さらに面白そうに声を出して笑い始めた。わかったよ、と諦め鼻の付け根にしわを寄せるのを見て、くつくつと喉を鳴らし続ける。しかめ面のままのアレクサンドルは小さな焼き菓子に手を伸ばして一口で食べきると、その表情を緩ませた。男はそれを見て、また満足そうに鼻を鳴らす。
「さて、では子猫ちゃん。今日はなんの話をしようか。紅茶はまだまだある」
「あの、俺の呼び方はそれで決定なの?」
不満を露わにする青年に、自らを悪魔と名乗った男――シャルマンはいたずらっぽく笑いかけた。
2021.11.29 初稿
2024.01.27 加筆修正