北の教会にて 2
「さて、子猫の君。君はどうしてこんなところに」
「子猫じゃない。やめてくれ」
目の前には品の良い茶器に注がれた香り立つ紅茶があった。
あの後、夜はまだ長い、少し話をしようと、なにも言えず立ち尽くしていたアレクサンドルを引っ張り聖堂の北側翼廊脇の扉をくぐった男は、どんどん先へ進み、応接室と思しき部屋へ彼を案内した。アレクサンドルが促されるままにソファに座ると、男は満足げにうなずきすぐにどこかに姿を消した。
男が消えると、力を抜くことを忘れていたアレクサンドルの全身はどっと脱力し、極度の緊張から来る疲労で徐々に重さを増していった。質の良い長椅子に沈む己の鉛のような体に、「彼がいない隙に」という思考はあっさり却下される。
なにが起こったのか整理する余裕が戻らぬままアレクサンドルが目を閉じて深呼吸を繰り返すこと数分、そろいの茶器を乗せたトレーを持って再度姿を現した男は、よどみない手つきで目の前にそれを並べる。若干ほどけた緊張とともに呆然と見つめていると、不意に声をかけられたのが先程。
「では、不法侵入者くん」
嫌味でもなくそう呼ぶ男にアレクサンドルは自らの愚かさを突き付けられているような気持になりうなだれた。もちろん、自分の行いが全ての元凶なのでなんら反論はできない。
「……よしてください」
「ミルクは?」
目の前に差し出された小さなポットをぎこちない仕草で受け取ったアレクサンドルは、諦めの混ざる表情で男に向き合う。
「アレクサンドルです」
男はにこりと笑いうなずくと、自らの分のカップを準備しアレクサンドルの座る長椅子からL字に配置された肘掛椅子に落ち着いた。
「紅茶はよく飲むかい」
「滅多に。高級品です」
ふむ、と温められたミルクポットを持ったまま動かないアレクサンドルを見やると、男は嬉しそうに話し始めた。
「あまり癖はないほうだと思うが、口に合わなければすぐに新しいものを用意するよ。ミルクは少量でいいだろう。香りが甘いから砂糖はあまり入れすぎないほうがいい」
少しでもリラックスできるといいがと続けると、促すように肩をすくめ自らのカップに口をつける。
それこそ不法侵入者相手に随分手厚いもてなしだ、と呆気にとられながらも、アレクサンドルは言われたとおりに少量のミルクを注いだ紅茶に口をつけた。鼻に抜ける香りとほのかな甘みに、コーヒーに慣れた口が喜ぶのを感じる。喉元を流れる熱さに、冷えて疲弊した体を自覚させられた。
「……おいしいです」
「それはよかった」
機嫌良く笑う男は急かす風もなく座っている。先程の出来事がすでに噓かと思えてくる中で、人にはない虹彩だと嫌でもわかる彼の瞳だけが浮いたように赤く光る。
「落ち着いたらで構わないから、先程の質問の答えを聞かせてくれ」
ふうと軽いため息とともに投げかけられた要望は甘さすら含んだ声音で、それでもアレクサンドルの動きをぎくりと停止させた。紅茶の温かさで緩んだ体にまた力がこもる。
「その、すみませんでした。勝手に入って」
「硬くならなくていい。責めているわけではないんだよ」
いたたまれない様子で顔を伏せるアレクサンドルに笑いかけると、男は穏やかな口調で続けた。
「なにか、用があって来たんだろう。神様だか、天使様だかわからないが。人にはそういうときもある」
自ら悪魔と名乗る割には随分と柔らかな物言いにアレクサンドルが上目で様子を窺うと、それこそ天使のごとき美しさで笑っている。依然混乱する頭でそれらしい侵入理由を探してもたいした結果は得られないと早々に諦め、アレクサンドルは素直にそのままを口にした。
「あなたに一目でも会えれば、と」
「私?」
男は一瞬訝しげな表情を浮かべると、すぐに片眉を器用に持ち上げへ依然と話す。
「昔の私が君を誑かしたかな。それとも、なにか恨まれるようなことでもしただろうか。ああ、もしかしたら君の母君と寝たかもしれない。それとも父君か? だとしたらそれはすまないね」
さらりと言ってのけ、なんでもない様子でまたカップを口に運ぶ。冗談なのか本気なのかもわからない口ぶりに困惑していると、カップとソーサーをテーブルに戻しながら男は肩をすくめてみせた。
「冗談だ。ここ何年もそんなことはしていない」
若干含みが残るものの、そういうとこちらの続きを促すように姿勢を直す。改まって言うほどではない上に、告白とそれほど変わらぬ内容に気まずさを覚えながらもアレクサンドルは話を始める。
「……昔、ここと、中央の教会で何度かあなたを見たことがあって」
「ふむ?」
眉根を寄せながらも相槌を打ち、男は肘掛椅子の背にもたれかかる。思案するように顎を持ち上げるが、視線は変わらずアレクサンドルから外れない。
「そのうち二度、あなたの翼を見ました。ボヤ騒ぎがあったときと、葬式で」
「なるほど、君は私を”忘れていない”目撃者の一人なわけか。それで天使、と」
男はふっと浅くため息をつくと、難しい顔で眉間を揉む。アレクサンドルはその言葉に聖堂での会話と同様の違和感を抱きながらも、今ここで聞いては話の腰を折るだろうとそのまま続けた。
「憧れというか、その、ずっと探していたんです。中央には何度か通いましたがそれらしき姿を見かけたことがなくて。なぜか誰も覚えていないし。もう随分昔ですが、あちらの古い神父様には忘れろと言われました。ここなら、と思っていたのですが、仕事柄あまり堂々とここへ来るわけにもいかず、いずれ合えたらと思っていて」
「……それで、なんでまた急に? 鍵を盗んでまで」
「ここの取り壊しが決まったと聞いて。最後のチャンスだと思って……」
言い終わる前にぎしり、と男の椅子が鳴る。アレクサンドルが気恥しさかで手元のカップに落としていた視線を持ち上げると、先程までくつろいでいた様子だった男が険しい顔で前のめりにこちらを窺っていた。
「取り壊し? ここが?」
「はい。……聞いていないんですか」
「聞いていないもなにも、……そうか、なるほど。まあいい。続けてくれ。それで、君の言う天使様に、なにか願いや祈りでも? 私は残念ながら君の望む存在ではなく、それを受け入れる義理もないが」
男はなにか言いよどみ一人で納得したかと思うと、膝に肘をつき片手で額を覆いながらもう片方の手でひらひらと先を促す。会話を始めてからほとんど初めて外れる視線にほっとしながらも、改めて言葉にするのはためらわれるような理由だ、とアレクサンドルは一瞬言葉を詰まらせた。
「いえ、……あの、天使様じゃなくてもいいんです。純粋に会いたくて、……ええと」
「君は私の姿に一目惚れでもしたってことかい」
ゆるりと持ち上がった男の視線がアレクサンドルを射抜くと、聖堂の時と同じく全身が強張る。先程とは種類の違う緊張に背化中に汗が浮いた。手元の甘い紅茶の香りと相まって、その目に誘惑されたようにぐらぐらと思考が熱を帯びるのをアレクサンドルは感じていた。
「そういわれると、そう、です……」
「ふうん、そうか」にんまりと、その目が弧を描く。「君は随分素直だな」
「……嘘は苦手で」
「そのようだね」
ははっ、と短く息を吐きだすのとほとんど同時に、男の表情が和らぐ。同じくしてアレクサンドルの緊張もほぐれ、無意識に力がこもっていた指先に血が通うのが感じられた。男の弛み持ち上がった口元と柔らかく細められた目を見て詰まりそうになる息をごまかすように、アレクサンドルは咳払いを一つし、紅茶に口をつける。
目も香りも、アレクサンドルにはむせるほど甘かった。
「天使を信じるほど素直で信仰深い君が、恋を諦められずに人間ではないであろう私を探して鍵を盗んでここに不法侵入し、まんまと私に捕まった、と」
「恋……、いえ、そう……ですかね」
「なんだ。すべて君の望み通りじゃないか」
「それは……っ」
アレクサンドルは咳き込みそうになるのを堪え、明らかにからかっているだろうに少しも声の調子を変えない男に押されてどんどんと背中を丸めていく。
「つまらないな。私のものだなんてぬるいことを言わず、今からでも主従の契約でも結ばせようか」
びくり、と反射的に肩が揺れた。男が何者であるかの真偽もわからず、なにをされるのか、どうなるのかもわからないそれらの言葉が、軽くない響きでアレクサンドルの体を冷やす。
「これも冗談だよ」
そろりと視線をよこすアレクサンドルに、元のように優しく笑って男はまた肩をすくめてみせた。
「あの、一つ質問しても」
「どうぞ?」
男は優美な仕草でソーサーを手に取り脚を組んでみせ、満足げにゆっくりとまばたく。長いまつげが縁取るその奥の赤を見つめると、応えるように視線が返ってくる。
「その、『私のもの』っていうのはどういう……」
「そのままの意味だよ」
のんびりと紅茶を飲み、湯気の立つカップに視線を落としながら男は述べる。
「先ほども言ったが、私がここを放棄するまで、入ってきたものは私が好きにしていいことになっている。捕って食べてしまってももちろんいいのだが、私は面食いでね。君のことがなかなか気に入ったから、私が飽きるまで君は私の所有物ということにした」
「所有物って……具体的にこう、なにかあるんですか。悪魔憑きみたいな……」
「君が悪魔憑きにどんな印象を抱いているかわからないが、おそらく違うね」
悪い想像ばかりを浮かべているだろう歯切れの悪いアレクサンドルを見てへらへらと笑う男に妙にざわめく感情を抑えながら、アレクサンドルは視線を外さず言葉の続きを待つ。
「身体的にも精神的にも、特になにもないよ。君が私のものというだけ」
「つまり?」
「私がそうしたい時に私と遊んでくれればそれでいい」
遊ぶ、と怪訝な顔をするアレクサンドルを満足そうに見つめた男は、うふふ、とつややかな声をこぼした。
「やましいことはないさ。いや、ないとは言い切れないな。それは私の気分次第だ。訂正しよう。人を殺してこいとか生き血をささげろとか、そういうのはないよ。私の趣味じゃない。君が暇なとき、たまにここに来て話し相手にでもなってくれ」
アレクサンドルは男がそう言ってのける姿にどう反応を返せばいいのかわからいないまま、「やましいこと」の意味を無視してひとまずは安堵する。ここに来て、話す。それだけなら問題ないはずと、案外なんでもない要求に肩の力がじわりと抜けた。
「悪魔との契約、とは別ですか? なにか、さっき言っていたシュジュウの、みたいな」
それらがどんなものなのかもわからないまま口にする言い慣れない言葉に、アレクサンドルはむず痒さを覚え髪を掻き上げた。男の顔は変わらず楽しそうで、心なしか声も弾んでいる。
「明確にそれが自分のものと認識できれば、持ち物すべてに名前を書きはしないだろう」
「明確にって、どうやってそんな」
「君が状況を受け入れ始め、こんな質問をしているのがなによりの証拠じゃないか」
まさか、と言いかけ、アレクサンドルは口ごもった。状況整理のためとはいえ、聞きながら反論もせず、ここに来て話すだけならばとすんなり飲み込んだのはつい今しがたのことだ。
なにも言い返さずむすりと黙るアレクサンドルを横目に、男は愉快な調子で続ける。
「きみが『そういうの』をお望みならそれでもいいが、形式張った関係は個人的に面白くなくてね。あまりおすすめしないな。もしかして悪魔崇拝者だった?」
「……っ、違う!」
存外に大きな声が出て、アレクサンドルは慌てて口を押えた。面白いものを拾ったという空気を隠しもしない男はその声にも笑顔を崩さない。
「なに、そんなに難しいことは言っていないだろう。老人の茶にでも付き合う気持ちでいればいいさ」
「受け入れたわけじゃないぞ……」
アレクサンドルは気まずそうにぬるくなりつつある紅茶をぐいと飲み干すと、緊張と疲労と、自らのお人好しさへの呆れを含んだため息を細く長く吐き出す。男は組んだ脚をほどくと、手元の茶器をテーブルに置き短く笑った。
「君の感情はなんだっていいさ。初恋の相手にまた会いに来てくれ。君が思っていたようなヒトではなかったかもしれないがね」
初恋とは概ねそういうものだろう、と声を出して笑う男をアレクサンドルはじろりとにらみ、今度こそ気の抜けた様子でうなだれた。
2021.11.16 初稿
2024.01.27 加筆修正