贅沢者
「どこが好きなのよ」
「なにが」
どうやらこの後か明日に約束があるらしい「憧れの紳士」に電話をかけて戻ってきたアレクサンドルに、同僚のベンが半ば義務感で聞く。
先程まで飲み始めの勢いで盛り上がっていたくだらない愚痴と世間話、シモの話の空気は落ち着き、お互いにそれなりに酔いが回って「ご機嫌」そのものだった。アレクサンドルに至っては上機嫌のあまりブンブンと揺れる尻尾の幻覚が見えそうなほどにまとう空気が弾んでいる。電話から帰ってきて、尻尾の気配はより濃厚になっていた。
「あの人のこと。〝男の憧れ〟ってのは正直すげえわかるけどさ」
席を外していた間に追加されたビールを呷りながら、アレクサンドルはばかにする気配がないかをじろりと睨みつけて観察する。集団でお互いが茶化し合う空気は許しても、サシの場で、特に「彼」についての嘲りを含んだ話題をアレクサンドルは許容しない。
憧れというのは宗教に近い。オリーブを奥歯で噛み潰しながら、ベンはその視線を受け流した。
「……どこって言ったってなぁ。全部?」
「バカップルかよ。具体的には?」
「まず顔がハンサムだろ。スタイルもいいし」
「いきなり絶対に覆せないところ持ってくるな面食い野郎め」
それはわかってんだよとベンは抗議のためにテーブルを軽く叩く。
「あの人はすごいんだ。物知りだし、どこの国のかも知らない言葉の本をよく読んでる。料理も上手だ。見ているだけで楽しい。歌もすごくすてきだ、聞いたことないだろ。聞かせないけどな。それにピアノも弾けるぞ。いろんな楽器弾けるらしい」
「……」
「そのうえ性格も、……性格はちょっと意地悪だけど、でも優しい。悪いところはどこもない」
自分のことよりもぺらぺらと饒舌に話すアレクサンドルに気圧され、ベンはボトルからちびちびとビールをすする。喉に広がる苦味は外的な刺激だけではないと本能的に理解していた。
まだ話し足りないと自分もボトルを空け、アレクサンドルは勢い込むようにまた話し始める。
「それにセンスも抜群だ。いつものスーツも……」
「待て、そうか、もういい、わかった。よかったなそんな人に気に入ってもらえて」
アレクサンドルは興が乗ってきたところを強制的に止められ、一瞬ぴたりと動きを止めた。すぐにぎゅっと眉間や鼻の頭にしわを作り、口を歪ませる。
「そう、よかった。でもよくない。俺は所詮、ただ気まぐれに拾われた猫なんだよ」
「お前酔ってるだろ。なんだ猫って。犬じゃなくて? エロい話か」
「くそ、好きじゃなくなりたい。どうしたらいいんだ」
「なあ、猫ってなに」
「うるさ」
「はあ? なんだてめえ、せっかく話聞いてやってんのに」
ベンはこのネタは引っ張れないのかと早々に諦め、かねてより抱いていた疑問をぶつけた。「猫」については後日糾弾すると心に誓いながら。
「そもそも、お前のその『好き』ってのがわかんねえからさ。キスしたいとかセックスしたいとかじゃねえんだろ。俺たちみたいな友情とも違う」
「違うなぁ」
「だよな。女の子とも普通に遊んでるし。そのへんのお前の中の区切りがわかんねえ」
「女の子とセックスはしたいだろ」
「クソ野郎め」
「モテない僻みか」
「モテるわ、死ね。ていうか、酒の席だから言うけどさ、お前、あんまり『誰かの一番』とか『誰かが一番』とか言うタイプじゃないじゃん。友達とか、恋人もそうだろ。いや恋人は相手にもよったか」
ぐんと眉を持ち上げたアレクサンドルがふんと鼻を鳴らす。図星を指されるというほどでもないながら、その自覚はあるのだろう。
「それはそうかも」
「でもあの人は『一番』がいいのな。珍しい」
「……」
「そんだけ本気ってこと? よくある『好きな子はズリネタにできない』みたいなやつ?」
「いや、だって、だってさぁ……」
飲んだアルコールの量だけどこもかしこも赤くなったアレクサンドルの肌に、いくらか冷静さを取り戻した白い影が差す。目元ばかりが泣き腫らしたように赤い。
核心をついたな、とベンが黙っていると、肩を落としながらぼそぼそとアレクサンドルが続けた。
「すげえまぶしそうに『私がこの世界で最も愛する人間』って、もういなくなった人のこと話すんだぜ」
男やもめってやつか。たしかにそんな陰った色気があるとベンは納得するとともに、なぜアレクサンドルがそんなことを気にしているんだとつい先程のアレクサンドルと同じように鼻を鳴らした。「後添いにでも立候補するのか」と冗談を言える空気でもない。
くすんと湿った音を立てて鼻をすすったアレクサンドルが、酔いの回った安定しない視線をテーブルに落とす。
「その視線の先にいるのが自分だったらって、少しは考えるだろ」
憧れてしまうほども熱くて眩しい視線を見たことはあるだろうか。
ぼんやり考えるベンがテーブルに肘をつき、朱が差しているせいで今にも泣きそうに見えるアレクサンドルの顔を見つめる。
「そんなところもかっこいいなんてズルいんだよな。一番にしてくれないくせにいいところばっかり見せてきて」
その表情は恋する乙女と言うにはいささか俗で、自嘲と諦念が色濃い。きっと女好きする顔だろうに、目の前に座っているのがむさ苦しい男で残念だったなとベンはバレないようにため息をついた。彼を好ましいと思う女性たちは、彼にこんな顔をさせている相手を羨むだろう。
「彼が唯一よくないのは、もう誰にも彼の一番の座を明け渡す気がないところ」
そう言って机に伏せたアレクサンドルの後ろには、今にも肩を叩き声をかけようと手を中途半端な高さに浮かせて固まるシャルマンが立っていた。あまりのタイミングのよさに肘をついたままおかしな声が出そうになったベンは、喉を鳴らしてそれを飲み込み、おかしな声が出そうになったままの顔でシャルマンに視線を送る。どこから聞いていたのか、シャルマンの困惑を隠せない行き場のない子犬のような笑顔はベンの感情を揺さぶり、彼を味方にした。女好きする顔のアレクサンドルなんて比ではない。
「最悪だ」
その場の異常な緊張感に気付かないまま、アレクサンドルの言葉は続く。声には眠気と悲壮が滲むが、聞いている二人の方が悲壮な顔をしていた。
「いっそ嫌いになりたい」
最悪なのはこっちだ。自分で呼びつけただろうにその存在に気付かないどころかそのまま寝入ってしまいそうなアレクサンドルに、ベンは心の中で悪態をつく。
いつ声をかけたものかと、ベンとシャルマンは妙な連帯と気まずさを混ぜ込んだ空気が流れる中でしばし呆然と固まったままだった。周りの声だけが騒がしくアレクサンドルを刺激するが、それすらも今の彼には子守唄同然で、気付きようもない。
呼べばいつでも駆けつけてくれる相手にもっと愛されたいだなど、お前はどれだけ贅沢者なんだとくだを巻きたい気持ちを抑え、ベンはちらりとアレクサンドルのいい人を窺い見る。この男に「世界で最も愛する人間」と言わしめたその人は一体どこの誰なのか。すぐ横でそれを見せられていれば、たしかにその人の幸福を想像し、羨むこともあるかもしれない。「いなくなった」その時のことはわからないが。
ベンがアイコンタクトと共にお手上げのジェスチャーを送ると、シャルマンは少しばかり思案したのちにそっとアレクサンドルの肩に手をかけた。随分優しい声で起こす男の姿を眺めながら、十分お熱いじゃないの、とぼそりとつぶやき、ベンはもう数滴しか残っていないビールの瓶を傾けた。
2022.12.04 初稿
2024.02.08 加筆修正