私のかわいい子猫ちゃん 12
一瞬の感情の高まりののち、詰まった喉から思い出したように呼気が漏れるのを合図に、ぼやけていた記憶が徐々に鮮明なものとして脳裏に浮かぶ。
叫ぶ声と路地裏の雑音。鉄と土と埃の匂いとのめり込む感触。その前後の疲労と重たい体。顔を拭ったガーゼの色。書き殴った報告書。汚れた髪の煩わしさ。夜の教会の床の冷たさ。湯船の硬さ。あちこちの傷に染みる湯の温度。自ら引き寄せた甘い香りと、心地良い抱擁。タオルや寝具の柔らかさ。一晩中離れない熱と耳元に落とされる柔らかな声と、ぬるい安堵のため息。初めて呼ばれた、聞き慣れない愛称。
「……っ、シャルマン」
気付いたらぎちりと握り返していた手を無意識に引き寄せ、自然と前のめりに寄ったシャルマンの肩に額を押し付けながら、アレクサンドルは狭まる自分の喉からひゅうひゅうと音が鳴るのを聞いた。シャルマンの言葉に跳ねた心臓は、そんなものはただのきっかけでしかないと、今や別の原因で鳴り止まない。
「ほら、大丈夫じゃないだろう」
アレクサンドルは背中に回ったシャルマンの手が体を抱き寄せるのをそのままに、自分の呼吸に集中していた。高熱にうなされて見る夢のように巡る記憶を順に並べながら、そこに紐付いていく押し留められない自分の感情を呼気に乗せて吐き出していく。先程まで普段通りに過ごしていた自分は別ものだったのだと、思い知らせるようにそれらが絡まり思考を乱す。
「私がしたのは君を眠らせるための、一時の延命治療のようなものだ。しかし、少しずつと言ったのに。仕方ないかな。今のは私も悪かったね」
背を撫でる手が徐々に熱く感じられ、自分の体から熱が失せていくのをまざまざと知らせた。触れる熱により、吐き気がいくらか抑えられる。
「だが、なににしても君はまだ私を求めているだろう」
「……ありがとう。確かに俺が求めた」
握った手もすがるように掴んだシャツも離せず、小刻みに震えるそれをどこか他人事のように見つめる。アレクサンドルは無意識に補完され妙なリアリティを持って再生され続ける記憶を押し留め、シャルマンの声と匂いに意識を集中させた。それらが自分を落ち着かせると、何故か本能的に理解していた。
「……でも、さっきみたいな台詞は心に決めた人に言うべきだ。あまり軽々しく……」
「軽々しい?」
調子を取り戻そうと精一杯の小言を挟むが、想定していたよりも真剣な声音でシャルマンは言葉をさらった。
「私は軽い気持ちで言っているわけではないよ、私の子猫」
「でも、……こんな状態で、慰めに使うには重すぎる。あなたは優しいからそうやって」
「私の言葉は重たいかい」
「……ごめん。違うんだ、そうじゃなくて……」
「君を慰めるための言葉ではないよ。私と、君のことを言葉にしているだけだ」
一旦無理やりに体を引き離すと、シャルマンは体勢を変えてソファに片足を上げる。動かないアレクサンドルに完全に向けた体をさらに寄せ、先程とは逆にその手を掴んで引き寄せた。
「君はこういうとき、素直に甘えるのが下手なようだね」
同時に背中をさする腕が力を抜くように促し、それに従順なアレクサンドルの体は大人しくシャルマンの胸の中に収まる。
「私にだけならいいんだが」
「……、ごめん。ありがとう」
少し痛むほど強く抱きかかえられる感触を手放さないように、アレクサンドルは目を閉じて入り交じる鼓動に耳を澄ませた。
2022.03.10 初稿
2024.02.06 加筆修正