1959 シャトー・ラフィット・ロートシルト

「なるほど、これが正解か」
 つい先程まで饒舌に話していたのが落ち着き、グラスを握って鼻歌混じりにへらへらと笑うアレクサンドルを前に、かなりのスピードで空になったワインのフルボトルをテーブルの脇に寄せながらシャルマンがつぶやいた。アレクサンドルがほとんど初めて見せるこの上なく上機嫌な姿は、シャルマンの口の端を持ち上げる。その声にも表情にも気付かないままに、アレクサンドルはゆらゆらとグラスの中身を揺らした。
「さっきのもおいしかったけど、これ本当にすごくおいしい。高いやつ?」
 何度目かわからない絶賛の言葉に、びたエチケットをくるりと自分の方に向けてシャルマンが首をかしげた。酒好きなら聞いたことがあるだろう銘柄は、アレクサンドルには見せていない。
「どうだろう。君の一月の給料くらいかな」
「ははっ! あなたは本当に冗談が上手だ。そんなものを俺に出すわけがない」
 笑いながらグラスに残った赤い液体の香りを嗅ぐ。染まった肌がアレクサンドルの機嫌の良さをさらに際立たせた。
「飲み頃は過ぎてしまっただろうと思っていたが、ちょうどいいな。そういえば一九五九年は当たり年だ。もかしたら二ヶ月分か、三ヶ月分かも」
「よくわからないけど、そりゃあうまいはずだ」
 愉快でたまらないとでも言うようにアレクサンドルがクスクスと声をこぼす。惜しむ様子でグラスの中身をいくらか口に含み、飲み込んでは幸福のため息を漏らした。
「おいしい」
「うん」
「今まで飲んだお酒の中で一番おいしいかも」
「それはよかった」
「しあわせ」
 自分の鼻歌に身を任せふらふらと上体を揺らしながらチーズをつまむアレクサンドルを、シャルマンは興味深く見守る。
 チェイサーとして置いているほとんど減っていない水のグラスを差し出すと、アレクサンドルは抵抗なく受け取り飲み干した。
「これはなかなかだな。声が出なくなるほど飲ませてしまうのも納得できる」
「声? なにが?」
 空になった水のグラスを自分に寄せながらシャルマンが笑った。
「君、笑うととてもすてきだ」
「俺? ありがとう。でもあなたほどじゃない」
 アレクサンドルは口直し丶丶丶にグラスに残った少しのワインを舐め、テーブルに肘をつきため息をこぼした。褒められた気分の良さからか、いくらか威張った口調で続ける。
「あなたってすごくハンサムだ。自分でもわかってるでしょう。そんな顔で気の利くことばかり言って、さぞモテるでしょうに」
「でも君はあまり笑ってくれないだろ」
「そんなに笑わないかな、俺。そんなことないと思うけど」
「私の前ではね」
「そうか、そうかも」
 アレクサンドルはグラスを置いて肘をついたままに両手で顔をこすり、熱い息を逃がすように深呼吸をひとつすると、そのまま伏せる勢いで髪の毛を掻き上げる。ワインを開けてから幾度かアレクサンドルの手で混ぜられた髪の毛は、すでに原型を保てていない。
「恥ずかしいんだ、あなたの前だと」
「なにが」
「だって、ずっと夢に」
「夢?」
 軽く固めていただろう艶のある髪がばらばらと重そうに崩れていくのを物珍しそうに眺めながら、シャルマンはアレクサンドルの周辺の皿をどかしていく。アレクサンドルはなにかを思い出すように一度天井を仰ぎ見たかと思うと、またすぐにテーブルに肘をつき背中を丸めた。
「夢。すごくきれいで、……眠たくなってきた。今日、仕事が、大変で」
「うん、忙しかったね。それで、夢って?」
「すっごく疲れた。俺帰れるかな。酔ってるかも。酔うといつも官舎のドアコード忘れて、それで、同僚が……」
 どんどん崩れていく姿勢と逸れる話と聞き取れなくなる声に、シャルマンは諦めのため息をこぼすと自分のグラスを空にする。そうしている間にゴツンと音がして、アレクサンドルが完全に動きを止めた。
「泊まっていきなさい。こんなかわいい子猫を放り出せるわけがないだろう」
 テーブルで額を冷やしている丶丶丶丶丶丶丶丶アレクサンドルからはもう返事もない。

「おはようございます……シャワー借りました」
「おはよう、子猫ちゃん。よく眠れたかい。二日酔いは? 声は大丈夫そうだね」
「それはもう、ぐっすりと。おかげさまで元気です」
「私も少し飲ませすぎた。久しぶりで加減がわからなくて」
「いや、俺がちょっと気を抜いたというか、調子に乗ったというか。おいしくて」
「うふふ」
「昨日の俺がなにか粗相はしておりませんでしょうか」
「いいや? 覚えていないのか、かわいかったよ」
「かわ、……、はい?」
「次からは自分で着替えられる程度に抑えるか、先に着替えさせてから飲ませるよう私も気をつけるよ」
「……なるほど、なるほどそういう感じか。どう謝罪すれば」
「また付き合ってくれ」
「寛大なお心に感謝します」
「ところで、夢ってなんだい?」
「夢? なに急に」
「昨日君が夢の話をしていた」
「おっ、そうきたか。なるほど。忘れてください」
「どうして」
「どうしてもこうしても、どうしてもこうしてもです」
「まだ酔っているのかな。顔が真っ赤だよ」
「そういうこと」
「ワインは抜けにくいと言うしね」
「そういえば昨日のワインすごくおいしかった。どこのですか?」
「ラフィットのオールドヴィンテージだよ」
「……今のは聞かなかったことにします。まだ酔ってるから」
「そのようだね。今度は顔が真っ青だ。大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
「私はもっと君のことを笑わせたいんだが。ほらまたそうやって、変な顔して」
「全部あなたのせいでしょう!」

2023.02.19 初稿
2024・02.03 加筆修正