それは瞳の色に似て
「質問しても?」
キッチンでりんごを剥くシャルマンの横で作業を観察していたアレクサンドルが控えめな声で問いかける。朝食を終え一息ついた頃合いに始まったシャルマンの余り物を利用した備蓄作りを、他にやることもないからとアレクサンドルが眺めはじめて数分。朝食でも出されたりんごが次々と剥かれカットされていく。
「どうぞ?」
「なに作ってるの?」
「ジャムにしようと思ったが、君の時間が許すなら午後にはアップルパイが焼き上がる」
「あります」
「返事が早いね」
「もう一つ質問してもいい?」
「どうぞ」
「なんの香水使ってます?」
頻繁に目の前のりんごの山に移るアレクサンドルの視線に気付いているシャルマンから、八分の一にカットしたりんごの最後の一片が差し出された。おずおずとそれを受け取ったアレクサンドルが上目でシャルマンを窺うと、手を出さずに我慢していることを褒める目線が飛んでくる。
「香水?」
「……いつも甘い匂いがする」
楽しそうに「砂糖や紅茶の匂いではなくて?」と笑うシャルマンを、アレクサンドルは渋い顔で否定する。
「使っていないよ、なにも」
「……じゃあ石鹸の匂いかな。柔軟剤?」
もらったりんごを二口でたいらげたアレクサンドルはごくんとそれを飲み込み、腕を持ち上げて自分の匂いをクンと嗅いだ。平時に比べたら嗜む程度に酒を飲み、遅い時間だからとそのまま泊まった翌日でも「同じ匂い」はしない。
「ふふっ、君、いやらしいやつだな」
「なに……」
匂いを探して自然と自分を嗅ぐ行動に自覚はないらしく、アレクサンドルはシャルマンの言葉にただ居心地悪そうに眉間にシワを寄せた。
「うふふふ。石鹸もそうだが、おそらく君が言っているのはこの匂いだ」
「え……、ちょっと! 待って!」
止める間もなくシャルマンの手元のナイフがさっとその指先をなでた。すぐに溢れ出した血が浅く開いた肉の間を埋め、指の上にりんごよりもよほど赤く光る玉を作る。
「ほら」
「おいおいっ、なに、何事?」
りんごを差し出すのと全く同じ空気でその指を差し出されたアレクサンドルは、混乱しながらも反対の手に握られたままのナイフを取り上げ遠くに放り投げる。慌ててスラックスのポケットからハンカチを取り出して傷口を押さえながら持ち上げた。
床の上でカラカラと回っていたナイフの音が止まる。
「さすが、動きが早いね。あぁ、そんな顔しなくても。大丈夫だよ。すぐ治る」
「なんにも大丈夫じゃないだろ。救急箱は?」
「いらない」
「でも」
「ほら、平気だ」
シャルマンは止血のためにきつく指を包むアレクサンドルの手を優しくほどくと、ハンカチをはずして先程と全く同じ仕草で指先を見せる。血濡れのハンカチが目の前にあるにもかかわらず、肌には傷一つない。
「……うわ、どうなってるんだ」
「ね?」
諭すようなシャルマンの声音に納得がいかないとアレクサンドルがにらみつけると、にんまりと笑ったシャルマンが目線の高さに持ち上げたハンカチを振った。
「匂い、した?」
突然の事態の収拾にのみ集中していたアレクサンドルの、無意識に緊張した体がシャルマンの言葉によっていくらかほどけた。先程まで気付かなかったものに順を追って思考と感覚が追いついていくのを、アレクサンドルはゆっくりと味わう。
血は止まった。傷のことはよくわからない。ナイフは手元にはない。後で拾わないといけない。剥かれたりんごの皮の赤色とハンカチについた赤色はよく見ると全然違う。りんごのそれに混ざる甘い匂いの元はどこか。早鐘を打つ心臓はまだ落ち着かない。
「……うん」
まとまらないながらも疑問に対する回答は得たと無理やりに自分を納得させているアレクサンドルの表情は、シャルマンをなにより楽しませた。上機嫌に喉を鳴らす。
「ところで、私も一つ質問しても?」
「なに……」
シャルマンは不機嫌そうに微動だにしないアレクサンドルを笑顔で、媚びるように見つめる。緩やかなまばたきはアレクサンドルの視線を離さない。
「どんなアップルパイが好き?」
「……、カスタードが入ってるやつ」
「オーケー。任せて」
赤く染まったハンカチを丁寧にたたんでポケットにしまったシャルマンが肩をすくめ、いつもの調子で笑いながらナイフを拾いに行った。外れた視線に安堵したようにアレクサンドルからため息がこぼれた。
「ちなみにだが、おそらく一晩一緒に眠れば君にも私の匂いが移ると思うよ」
「はい? ……、あぁ、くそ。そういうことか……」
「試したくなったらいつでも言ってくれ、子猫ちゃん。私はいつでも歓迎だよ」
振り向きざまに細められた目に邪気はなく、純粋な好気と色気だけが宿る。
アレクサンドルはかっと熱の集まる耳や首をごまかすように襟足を混ぜながら背中を丸めた。
「ハンカチは洗って返すよ。匂いは残るかな、残るかもしれない。残ったほうがいいかい? それにしても君、鼻がいいんだね」
「……、アップルパイ楽しみ〜」
2022.10.06 初稿
2024.02.07 加筆修正