風邪と睡眠

 キシリとかすかな音を立て、ベッドが沈む。すでに部屋に落ちる影は濃く、明るいながらも強い日差しは直接差さない時分。頭まで布団をかぶるベッドの主を掘り起こすように、大きな手が優しくそれらを掻き分けていく。
「おはよう、司祭殿。もう昼だよ」
「いいや、僕の中の夜がまだ明けていない」
 突然もたらされた明るさにも嫌悪はないようで、ベッドの主はひやりとした手を心地よく受け入れた。開かないまぶたと言葉だけがわずかな抵抗を見せる。顔にかかる髪を除けながら輪郭をなぞる冷たい手を捕まえると、司祭は包み込むように開かれたその手のひらへ唇を寄せた。
「詩人になったのか。それはいい」
「今日は勘弁してくれ。全然起き上がれそうにない」
「勘弁して、こんな時間まで一人で寝かせたろう」
 贈られたキスに答えるように、その手がいくらか熱を持つ頬を撫でる。明るさを遮る影がまぶた越しにも感じられたすぐあと、額に柔らかな祝福が贈られた。子供をあやすような男のため息に司祭が観念したように目を開くと、緩んだ赤い瞳がそれを迎える。
「うまく眠れなかった」
「それは誰のせいでもない」
「だから主も、寝穢い僕をお許しになる」
「都合のよい神だね。理想的だ」
 寝返りを打った司祭が横に座るシャルマンの腰を引き寄せるように抱いた。太ももに擦り寄る頭を撫でる手が髪を掻き混ぜ、首元で止まる。
「過去の聖職者たちが鐘を作って祈りの時間を定めようとしたのがそもそもの過ちだったんだよ」
 切ないため息を吐き出し、心地よさと落胆を混ぜ込んだ様子で続ける。
「祈りに時間なんて関係ない。神のものだった時間なんて概念を取り入れてしまったから、我々人間は好きに寝ていることも叶わなくなった」
「そうだね」
 じわりと伝わる司祭の熱を手のひらで受けながら、シャルマンは優しく相槌を打つ。
「人類史上最も愚かな行いだ」
「そうは言っても君、それ以前だって、日の出とともに多くの人間は起き出して働いていたよ」
「僕はその中の数少ない人間のうちの一人なんだろうさ」
 シャルマンの脚とシーツの間を掘るように顔を埋め、司祭はそこで落ち着いたのかもごもごと言い訳を続ける。聞き取れないくぐもった声を無視し、シャルマンはその背中の布団をいくらか剥ぎ取った。
「言い訳はいいからそろそろ出ておいで。君、昨日昼過ぎに菓子をつまんでから何も食べていないだろう」
「もう少しだけ寝かせてくれ。起きたら食べる」
「少しでいいから食べてから眠らないかい。そうしたら隣りにいてあげよう」
 腰に巻き付いた司祭の体を一度引き剥がし抱き上げるようにしてその体を起こすと、ほら、とサイドテーブルに置かれたトレーの上のスープカップと水差しを指す。
「……おまえは本当に、人を甘やかすのが上手いな」
「それが本職だからね」
 観念したようにベッドの上に座り込んだ司祭の丸まった背中にさっさとブランケットをかけると、シャルマンは司祭の体を支えながらヘッドボードに枕やクッションを簡単に放り、司祭が乱す前の状態、もたれてもいくらかそれらが腰を支える配置に直していった。司祭はそれを特に気にするでもなく、シャルマンに体重の殆どを預けながらグラスに手を伸ばし注いであった水を口に運ぶ。
「具合が悪いのだろう。医者を呼ぼうか?」
「いや、いい。少しだるいだけだ」
「匂いもわからなくなっているのに?」
 シャルマンは軽くその場を整えると司祭を離し、テーブルのトレーごとベッドに移してさっさと食べろと言わんばかりにすぐ側に置く。煮崩れた野菜のスープを前に、司祭はくすぐったそうに笑った。まだ中身の残る手元のグラスはシャルマンにさらわれ、飲み干される。
「……、本当に、それだけだよ。大丈夫」
「もう少し私に甘えたまえよ、君」
 だらしなくあぐらをかいた司祭が大人しくカップと添えられたスプーンに手を伸ばすのを確認して、ようやく次の水がグラスに注がれた。
「そうするよ。このあとはぜひ一緒に眠ってくれ。おまえがそばにいるとよく眠れる」
「よろこんで」
 飲み込みやすくとろみのついたそれを口にしながら、神よりもよほど、と浮かんでは消えていくのは、いつもよりも熱を持った頭のせいだろうと司祭はかすかに笑う。冷たい手で火照った首や背中を撫でられる心地よさや、冷えて眠れぬ体を包むぬくもりをもたらすのはまだ見ぬ“かれ”ではなく、いつだってこの悪魔かれだという事実に目をつむるように。

2022.02.21