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もう一度写真を撮りたい
写真を撮る準備を始めた。2年前くらいまではよくミラーレス一眼レフで写真を撮っていた。その後忙しさもあり、また創作に集中し始めると、睡眠時間を削ってしまう自分の性格を知っているので、大きな病気をしてからは何となくカメラに触れなくなってしまった。カメラ何台かとレンズ類は、取り出せない棚の奥の方にあった。今日、しまわれていた道具を再び出してみた。カメラ二台はなぜか見当たらないが。
私の写真歴は古く、小遣いをためて中学1年の時に一眼レフを買ったところまでさかのぼる。中学、高校時代は、友達と過ごす時間を撮ったり、自転車で近県を、後には北海道一周する等しながら写真を撮っていた。当時は、「その時しか撮れない写真があるから」「残したい」というのが、はっきりとした撮る動機だった。無限の未来があったあの頃、まだ見えない未知の自分のために何かを残そうとしていた。
その後カンボジアを撮った戦場カメラマン一ノ瀬泰造や沢田教一に憧れて、ドキュメンタリー写真家になりたかった時期があった。大学は日大芸術学部(通称日芸)写真学科を受験した。日芸は恐らく論文と面接で写真への熱意が足りずに落ちた。その頃の私が本当の意味でドキュメンタリーを理解していたかというと怪しく、どちらかと言えば戦場で何かを追い求めていた彼らの焦燥感に憧れていたように思う。
その後も写真は少しずつ撮り続けていた。独り暮らしのアパートの台所は週末には暗室になり、赤い電球の下で明け方まで、酢酸の匂いにまみれてプリントする週末を過ごしていた時期もある。夏は汗を拭いながら、冬は震えながら現像液の温度を保つために、バットを湯せんしていた。この頃に、私は光と影の繊細さに魅かれていることに気づいたのだと思う。
そして長い目で振り返ってみると、結局私は恋をしている時が一番写真を撮っているようだった。ファインダーを通して相手を見つめる独特の時間がある。気持ちを込めるようにしてシャッターを切る。その時の空気感や光を画像に封じ込めたい。髪の匂いを、重なる肩の温もりを永遠に止めたい。
写真は、色彩を失って光の輝きと影に行き着き、最後はモノクロ写真になっていく。モノクロの光は実物よりもまぶしくて、切なくなる。
この頃には、残したいというよりも、今を焼き付けたい衝動で撮っていた。今、しか見えていなかった。そこには過去も未来もなかった。
最近になって再び写真を撮ろうと思うのは、情景や光や影が気持ちに触れることが多いから。入院中のベッドの上でも、町の中でも、一瞬の光景に立ち止まることがある。空気があまりにも心地よくてシャッターを切りたいことがよくある。
今撮りたいのはたぶん、この気持ちを覚えておきたいから。今後失うかもしれない時間の中で、今を見つめている。未来の時間が約束されない中では、未来の自分に残す意味はない。しいて言えば、今後あり得る厳しい時間の中で拠り所になるのかもしれないけれど。生きている今の充実感を焼き付けたい、それだけかな、という気がする。
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本稿&画像 Ⓒ2019 青海 陽
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