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本『看護婦だからできること』宮子あずさ

今までに三度あった入院の体験が、私の中では、大切な時間として記憶されている。おかしいのだけれど、それは甘美な感じさえする。

静かに自分と向き合った、朝焼けの時間。
窓からの陽の光の中、愛しく思った自分の体。
優しく自分の体に触れた指先の感触。
夜の電子機器の音。
真夜中、眠らない看護師の足音の安心感。

あの場所で起きていたことを、もう一度理解しなおそうとしてきた。
凛とした夜明けの空気を思い出そうとしていた。


私があの時に死を見つめていた気持ちを、そして、その後の私の気持ちを言い当てているかもしれない、看護師の言葉があったので、引用してそのまま書きたい。

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 ある役割を演じることで、パニックに陥らずに自分を保つ——。そんなたくましさを人間は持っているのです。(中略)
 看護学生の時に接した、元ジャーナリストの患者さんもやはりそうでした。その方は五〇代後半の、見るからに聡明そうな女性。女手ひとつで息子さんを育て上げたとのことで、いつもその息子さんが面会に来ては、穏やかな会話を交わしていたものです。
 その彼の希望もあり、彼女には病名がはっきりと告げられました。胃のほとんどをふさいでいる進行胃がんであり、とりあえず食べたものが通るように胃を取るが、完治は期待できないこと、余命は一年以内であること……。
 それを聞いても彼女は動じることなく、手術を受けてからしばらくは小康を得て、自宅へ戻られました。
 しかし、間もなく再入院してきた彼女は、すでに腹水がたまり、見るからに末期の状態。それでも、学生が面会に行くとうれしそうな顔をされ、いろいろと話してくれたものです。「私は、人間というものはもともと無の世界から生まれてくるものだと思っているの。死というのはその無に戻ることだから、私は少しも怖くはない」
 彼女は面会しに行くたび、そう話してくれました。そしてその話す声は行くたびに少しずつ弱々しくなっていき——。それでも、亡くなる間際まで、彼女は饒舌でした。
 学生だった私は、そんな彼女の死に至る過程を見て、彼女の強さに感動したのですが、看護婦となり、さらに多くの死をみとるなかで、少しずつ考えが変わったのです。
 彼女は、本当はやっぱり怖かったんじゃないか。生きつづけられる証として、彼女はエネルギッシュに死について語ることを選んでいたのではないか。そしてその自分に酔うことで、彼女は自分を保っていた——。そんな風に、いま私は彼女のことを思い返します。
 自分に酔う、状況に酔う。そのことは、必ずしも感情的になることを意味しません。自分の残された生を、ひとつのドラマのクライマックスとしてきちんと演じきれる人は……、きっと、それまでの人生においても、きちんと主役であれた人なのだろうと思うんです。(後略)

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『看護婦だからできること』宮子 あずさ


そう、私が私であり続けようとした時間。

死を目の前にして、私が最後の時間にどうありたいのかを見つめ続けた時間。私は私だけを見つめていた。私は私を大切に感じていた。自分がひとつになっている気がした。

その時間が、透明で、清らかで、甘美なのかもしれない。


今、私がしようとしているのは、私の生きざまと死にざまを見てもらうこと。
私は、私を主人公にして酔い私を語ることで、私を生き、自分を保ち、私を終わらせようとしているのかもしれない。

そして、望むなら、それをそばで誰かに見ていてほしい。

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書名:『看護婦だからできること』宮子あずさ リヨン社 1993
Ⓒ青海 陽 2019


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