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祈り|終戦記念日

毎年8月15日の正午、甲子園球場の高校野球の試合は中断されて、サイレンの音が長く鳴り響く中で、一分間の黙祷が捧げられます。

サイレンの音が空襲警報を連想させます。静けさの中で、一瞬、世の中のすべての時間と音が止まってしまったように感じます。

多分この一瞬、私は戦争の時間につながれる気がします。知らないはずの戦争を思い出せる気がします。

今年も8月15日を迎えます。


戦争を語る世代が少なくなっていると言われます。戦争の時に二十代だった人たちが、現在の日本の最高齢の世代となっています。

戦時中、大人はどんなことを思っていたのでしょう。多分、全員が「鬼畜米英!」と叫んでいたわけではないでしょう。戦争に賛成している者や、日本が最後まで勝つと信じていた者ばかりではなかったはず。むしろ口には出さないものの、戦争を疑い、憎んでいたのではないかと思うのです。

そんなことを知りたくて、本屋で第二次世界大戦について書いた本を探したことがありました。しかし、あるのは、戦争の悲惨さを語った本、現代史として戦争を取り扱う本、そして『少年H』のような当時子供だった世代が書いた本ばかりでした。いったい、終戦の日、普通の人たちは何を思っていたのでしょうか。

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戦争のことでは、中学二年の時の弟の夏休みの宿題に付き合っての、祖母へのインタビューを思い出します。その時のテープは大切にしまってあります。祖母はとても穏やかに話す、世俗を超越してしまったような人でした。祖母の口からは、何かに対する不満や不平を一度も聞いたことがありませんでした。

「小さい時の遊び」「どんな暮らしをしていたか」「学校はどんな風だったか」など、40分くらいかけて祖母に話を聞きました。


インタビューの中に「今まで生きてきた中でつらかったことはなんですか?」という質問がありました。
祖母は考え込んでから「特にないねー」と静かに答えました。中学生の私は、戦争のことを話すのではないかと思っていました。だから、答えが意外だったのを覚えています。

ただ、中学生の私は、そこで「敢えて聞かない」という配慮は持っていなかったので「戦争はどうでしたか?」と聞いたのでした。

祖母はまた考え込みました。
そして、「つらいこともあったんだろうけど、わすれちゃったよ」と答えました。

その言い切り方が余りにもあっけらかんとしていたので、「そんなものなのかな」と思ってインタビューは終わりました。


祖母は明治32年生まれ、終戦の時は46歳でした。そして、終戦の年、二十歳すぎの息子を戦争で失っていたのでした。後に私は母の話でそのことを知りました。祖母は、母には「紙しか帰って来なかった」と話したことがあるそうです。

当時ほとんどいなかった無線技師の資格を持っていたために、最前線に送り込まれたとのことでした。
そういえば仏壇の上に、大きな天皇の署名入りの勲何等と書かれた表彰状が、額に入れて飾られていました。

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祖母の家のある町には、車両工場があります。現在は鉄道車両等を作っていますが、戦時中は軍需産業として戦車や飛行機の部品を作っていました。米軍機はそれを狙って時々爆弾を落としました。近くの神社に爆弾の落ちた大きな穴があるという話は、小さい頃よく聞きました。

それから、実家の裏の山には、防空壕がいくつか残っていました。その山はセメントで有名な山の続きの石灰岩の山でしたが、木の板で塞がれた防空壕が、私が小さいころにはまだ残っていました。人が入れる奥深い穴ということがとても興味をそそり、中を覗いて見たいと何度も思いました。

しかし、母にそのことを話すと、「今は水がたまっていて危ない」とか、「埋まってしまって奥には入れない」などと、いつも話を反らそうとするのでした。

山肌に痛々しく掘られた穴は、戦争の忌まわしい記憶をいつも呼び起こす「傷」のような風景だったのかもしれません。

戦争が終わって一年ほどしてから、広島では多くの人が原爆ドームを取り壊そうとしていました。これも忌まわしい記憶によるものでしょう。
最終的には、被爆して闘病後に亡くなった一人の少女の日記の「原爆ドームは後世まで戦争を語り継いでくれるだろう」という言葉によって、残されることになったとのことです。

裏山の防空壕は十年ほど前、山もろとも切り崩され、今はそこにマンションが建っています。戦争を語る人が消え、戦争の風景も消えていきます。



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以前、終戦時に二十歳ぐらいだった友人の母に、「終戦の日に何をしていましたか?」、と聞いたことがありました。

京都の海際の町に住んでいた女性です。「山の間の小さな畑で、土を耕していたよ」と、静かに下を向いたまま、つぶやくように言い放ちました。その前後の話は全くなく、それだけでした。

昭和20年8月15日、大きなラジオから雑音に混じって、初めて聞く天皇の肉声による戦争終結の詔書が流れた時、大人だった世代は、何も言わなかったのかもしれません。




そして、耕す人の時間は、激しく動く歴史とは違うリズムで、自然の時に合わせて、流れていたのでしょう。耕すことをやめない。やめられない。

土に向き合いながら、無心に耕す。

夕立。トウモロコシ畑の真ん中にいた彼女は、呆然と空を見上げたまま雨に当たっていました。

すると、それまでピンと立っていた若いトウモロコシの若い葉が、静かにいっせいに下を向くように動きました。静かな時間でした。

雨がやんで、畑に光がさしてきました。キラキラと光る雨の滴が、葉の上でポタポタと鳴っています。そしてまた耕しはじめます。

失ったものの大きさを土に漉き込んで、確かめるように、汗を土に落としながら耕す。

 
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8月15日。戦争によって、一瞬だけ、隔てていた時がつながり、過去の人の思いのうねりに巻かれるこの日。

失なわれた、たくさんの大切なものたちに、祈りたいと思います。



この文章は、私が二十代終わりの頃に書いたものを、三年前にニュアンスを変えずにリライトしたものです。毎年、終戦記念日に、ブログ等にアップロードし続けてきました。

毎年、8月15日には、先の戦争のことを思い浮かべます。その日が仕事の時には、正午にこっそりと外に出て、一人で黙とうをしています。無念の中で亡くなっていった多くの先達に対して、何と表していいのかわからない申し訳なさと感謝と敬意のような気持ちで頭を下げています。

戦争当時の「普通の大人」の思いについて、ずっとどこかで気になっていたところ、二年くらい前に読んだ小説「東京セブンローズ」(井上ひさし 1999年 文芸春秋)に、当時の様子が克明に描かれていました。
井上ひさしの遺作となったこの小説は、実在の日記を元に井上ひさしが長期にわたって史実の調査をして書いたものです。最近の言葉では「エゴ・ドキュメント」というものだと思います。実は、私はこの日記を書いた本人と親戚関係にある人に後に知り合うようになる、というおまけもありましたが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

今年は、この文章のアップロードにあたって、文章中の防空壕のあった山について、町名と山の名前等で繰り返し検索してみましたが、まったく情報がありませんでした。
造成されたために山が消失したことは明らかなのですが、かつての記録がネットの膨大なデータの中にさえ存在しないことは、ショックでもあり危機感を感じました。戦争はほんの70年前のこと、防空壕は恐らく約40年前までは残されていたはずです。戦争の痕跡が、語り継ぐ人や私たちの記憶はもちろんのこと、記録からも消えているのは、とても怖く感じました。

二度と同じ過ちは繰り返したくないと強く思います。
             2023年8月15日


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文・写真 Ⓒ2022 青海 陽

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青海 陽
読んでいただき、ありがとうございます!☺ かつての私のように途方に暮れている難病や心筋梗塞の人の道しるべになればと、書き始めました。 始めたら、闘病記のほかにも書きたいことがたくさん生まれてきました。 「マガジン」から入ると、テーマ別に読めます(ぜんぶ無料です)🍀