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初めての安藤裕子 配信ライブ体験② あの年のステイ・ホームの頃

前回は、配信ライブが盛んに行われるようになった2020年の春のこと、感染拡大に包まれていたあの頃の状況や空気感について書きました。
今回は、初めての配信ライブに至るまでの安藤裕子(正確には安藤裕子に向き合う私のこと)について、もう少し書きたいと思います。

私が難病で退院した後くらいからですから、もう十年くらい続けてずっと、関東圏で開催される安藤裕子のライブにはすべて行っていました。
けれども、2019年の年明け、私は心筋梗塞で救急搬送され、ライブ当日はCCUのベッド上にいたため、初めて行くことができず、持っていたチケットを流してしまいました。

その後の安藤裕子は、ライブハウス中心の活動や、他のミュージシャンとのツーマン・ライブに大きく転向してしまいました(おそらく大手レーベルを辞めたことでプロモーション力が大きく低下したのだと思われます)。
ライブハウスは、長時間立っていられない私の脚では、とても行かれませんでした。

実は、そのチケットを流してしまったライブ(ACOUSTIC LIVE 2019年1月6日東京・なかのZERO大ホール)が、彼女のこれまでの活動の終わりを意味するライブだったことを、私は後で知りました。
長く安藤裕子の楽曲を作ってきた、キーボード山本隆二とギター山本タカシとのライブはこれが最後となり、その後、安藤裕子は所属レーベル(avex系のcutting edge)も辞めたのでした。

約5年前、「自分の中ですべてが終わってしまった」というようなことを言って、彼女は曲を書かなくなってしまいました。
自分で「終わり」と表現したアルバムは、2015年1月に出た8枚目の『あなたが寝てる間に』でした。
後ろから2曲目「73%の恋人」は、恋愛の歌が少ない中で、さらに特異な、実らない束の間の男女の歌でした。
最後の曲「都会の空に烏が舞う」は、映画のラスト・シーンのよう。ライブでのラスト曲として想像します。実際に、その年のライブのラスト曲となり、彼女は光の中でバレエのステップで舞い、舞台を終えたのでした。

「終わってしまった」が何を意味するかはわかりませんでした。
数年間ずっと、私はライブのたびに手紙と絵本を渡し、SNSでもDMを送っていました。彼女は私が送った絵本の主人公のウサギのぬいぐるみを作り、ブログにアップしていました。その頃作られたいくつかの曲は、私が送った言葉をきっかけに書かれていると感じられました。ライブ後のアンケートの中から私のを見つけ出して、何度もブログに上げてくれていました。特別仕様版のアルバムの紙ケースの裏に彼女が直接烙印を押すという、ごく少人数のイベントに当たり、直接言葉を交わしたこともありました。

一方、直接の交流がない中での距離感覚は難しく、危ういリスクを孕んでいたとも思います。これは多分、アイドルやバンド等の推しが先鋭化するリスクと同じものだと思います。本人に伝えはしませんでしたが、彼女がSNSに上げる写真の背景の断片から、その町は私が以前住んでいた町に近いことがわかってしまいました。

彼女の行き詰まりの理由が、「私との間の何か」なのではないかとずっと気になっていました。確かめる術がないことが、さらに気持ちを辛くさせました。そして、ツイッターのDMは、この頃を境に読まれることがなくなりました。

このあたりの話を知人にしたことがあるのですが、「よくあるファン心理」と言われました。
確かに、良くも悪くも、自分が彼女の目に映っていることを期待していたと思います。「もっと」と求めるのが、とても危ない気持ちの動きなのかもしれませんね。


それにしても彼女の状況は、単純なスランプではないように見えました。自ら「曲が作れないシンガー・ソングライターに居場所はない」と言ってレーベルを去り、同時に長く続けた先の三人の関係も解消しました。彼女の曲を光るように磨いていたのは、三人での作業だったのは明らかでした。だから、決別は彼女の音楽活動の事実上の終わりと考えられます。それ程に、彼らの存在が大きく、それは彼女が一番よく知っているはずでした。

2015年1月のアルバム『あなたが寝てる間に』の後、彼女は本当に曲が書けなくなったようでした。それで、見かねた周囲は、他のミュージシャンからの楽曲提供を提案し、初めて大部分が自分の楽曲ではないアルバム『頂き物』が2016年3月に出ました。

これを最後に、2年以上アルバムは作られませんでした。CDシングルがわずかに1枚。ネット配信の曲が数曲ありました。
これ以降の曲はマイナーコードで、不協和音も多く、調子が悪いのは明らかでした。彼女が本当に望んでいる曲ではないことは容易に想像できます。
ライブ活動では、夏フェスのいくつかに参加しているようでしたが、もう再起はないのかもと思われました。

ツイッターとインスタグラムがあることで、かろうじてファンとのつながりが保たれていました。でも私には違和感があって、その世界になじめませんでした。彼女は高い頻度でSNSを更新していましたが、歌に向き合おうとしない彼女のおしゃれなランチや犬の話には、興味は持てませんでした。
プライベートの投稿は何か痛々しくて、見ることができませんでした。彼女の投稿であれば、何であっても好意的なコメントを残す、ファンの内輪感も好きになれませんでした。

私はよく彼女の歌を、車を運転しながら聞き、口ずさんでいました。多くの曲は歌詞を見ないでも歌えるから。私は、「あの頃」の安藤裕子の声を聴いているのかもしれません。

そんな中、先月、突然通達のメールが来ました。「これまでのファンクラブを解散する」という通知でした。
ファンクラブは、ライブ会員としての性質のもので、ライブチケットの優先予約ができるものでした。
今の情勢ではライブが開催できないのは仕方ないことです。まして、前のレーベルの時にセットされた仕組みであり、本人が長期間音楽活動に堪えない状況ならば、清算も仕方ないこととは思います。
一方で、私はライブがないのにライブ会員として会費を払うという、いわば投げ銭的な応援をしていた訳ですから、メールの事務的な字句が残念でした。通知には、お礼もお詫びの言葉もありませんでした。
現ファンクラブを解散して、新たなファンクラブを作るとのこと。とても「切られた」感がありました。旧来のファンを一度切って、新しい仕組みに乗る人を、再生する安藤裕子ファンの核にすると感じられました。

でも一方で、かつて「一生聴き続けます」と直接伝えたのに、今の歌えない彼女を私が信じ切れていないのも確かでした。そんな彼女をずっと好きでいられるのか、自分を信じられなくなっていました。だんだん存在が遠くなって、肌感覚で感じられなくなっているのが、淋しくもありました。

(つづく)

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文・写真:Ⓒ2020 青海 陽

続きの投稿は7/28の予定です。

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青海 陽
読んでいただき、ありがとうございます!☺ かつての私のように途方に暮れている難病や心筋梗塞の人の道しるべになればと、書き始めました。 始めたら、闘病記のほかにも書きたいことがたくさん生まれてきました。 「マガジン」から入ると、テーマ別に読めます(ぜんぶ無料です)🍀