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掌編小説|人間の名前
雪が降ったら雪という字を、晴れた日ならば、間近に訪れつつある春の字を。息子の名前を考える夫はそう話していた。
「初めてのプレゼントだから」
そう言って、上等な革のカバーをつけた手帳に何やら書き込んでいる。
「はりきるねえ……」
「一緒に考えないの? 楽しくない? 名前決めるの」
楽しめる人が考えてよ、名前なんて……と言いかけてやめた。ただ微笑んで、「私より、進ちゃんの方がセンスあるから」と言った。
名前というものが子どもにおくる最初のプレゼントだなんて、いったい誰が言い始めたのだろう。これを聞いた時、私は寒気がした。
子どもをこの体に宿した瞬間から、すでにあらゆるもの、言ってしまえば全てを与えているし共有している感覚があった。この小さきものに、私という容れ物を操られ、乗っ取られているような感覚に陥ることさえある。それが嬉しい時もあれば、発狂しそうなほど耐え難いときもあった。
それなのに、生まれた時がスタートだなんて。生まれた瞬間がこの子との「はじめまして」だなんて。
「読みやすい名前がいいな。誰が見てもすぐに音にできるような」
気持ちとは裏腹に穏やかな声で私がそう言うと、夫は首をひねった。私の考えとは違うのだろう。それならそうと言葉で言えばいい。いちいち首をひねってアピールなど不要だ。
「なんというか、意味を持たせたいから」
「意味?」
「そう。こういう人になるといいなっていう、親から見た希望とか夢みたいなもの。前向きな……。ねえ、なんで笑ってる?」
笑っているらしい。自分では気がつかなかったが、そっと指で触れると確かに上がっている口角を、そろそろと下ろした。
親が、名前に込めた意味を得意げに子ども、あるいは身近な者へ話しているのを見るにつけ、私は穴が空くほどその親子を見つめてしまう。
「愛」という名前をつけられた子どもが親の支配下で怯えている。「望」という字を与えられた子どもが、親の敷いたレールの上を目隠しをして歩いていく。
「しょし、かんてつ」
「は?」
「そういう名前の人っているかなって思ったら笑えてきたの」
夫はため息をついてこめかみを掻いた。
雪が降ったら雪の字を。
春が近ければ春の字を。
そういう簡単な世界は幸せかもしれない。
目に見えて美しいものに賞賛を。醜いものに石を投げよう。
美しいものの裏側を見てみたい本能に気付かないふりをして、そんな醜さに少しでも気づこうものなら、やれ気候のせいだ、やれ生理が近いのだと、封じ込める。封じ込めた気でいる。
夫は私の頬に触れ、そして大きく膨らみ、固くなったお腹にそっと手を伸ばした。
「少し横になった方がいいよ。張ってない?」
私が興奮していると足の付け根からじわじわと腹の皮に緊張が走る。
「ベビが怒ってるのかな」
「いつからベビって呼んでたの?」
「今、初めて呼んだ」
名前なんてどうでもいいの。だってこの子は私で、私はこの子。今の私たちはどうしようもなく繋がっている。それがあなたには見えないでしょう。かわいそう。だから名前がどうとか、休んだ方がいいとか、色んなことを私に言うの、この部外者が。
泣きじゃくる私を夫は黙って抱きしめた。
もう少し、あと少しで私は誰が見ても「親」になるって。
この恐怖に打ち勝つために私に名前をください。
もっと親らしい、もっと慈愛に満ちた、よくできた人間の名前。
長男を生んだ日の朝、窓の外にはどんな景色が広がっていただろう。雪が降っていなかったことは確かだ。