掌編小説 | レディー・キラー
〝花 吹雪〟と書かれた名刺を渡された。綺麗な名前だねと言ったら、左隣に座るその女性は僕から少し体を離して、嘘でしょ?、と笑った。
「うそじゃないよ。なんで?」
「ねえ。これ、読めないの?」
そう言って、名刺の文字を細い指先でなぞりながら、僕にもう一度読むように促す。
「はな、ふぶ……えっ」
女性は笑い出した。
「ね、面白いでしょ」
彼女が体を揺らして笑うので、いい香りがする。カウンターの中で、若いバーテンダーがこちらに視線を向けた気がした。
「ほんとだ。なにこれ、芸名?」
彼女はバーテンダーに作らせたオリジナルのカクテルを飲みながら首を振った。
「ビジネスネーム。今年から試験的に始まったのよ、我が社でも」
そう言って不敵な笑みを浮かべる。
「真面目な企業でしょ? こんなんでいいの?」
僕がそう言うと、体を近づけ、なにやら耳打ちしてくる。舐められそうに近づく唇は、ほんの少し僕の耳に触れた気がした。
「なんだ、上司とできてんだ。気に入った女には何でもありの職場なんだな」
動揺を隠すために少し棘のある言い方をした。彼女は、うーん、と言って僕から遠い方の肘をカウンターについて頬杖をついた。
「別に。その人とはやってない」彼女は言った。
「そんなこと聞いてないよ。聞いたところで驚かない。今知り合ったばかりの君のことなんて」
今日は随分と強気だと、我ながら驚いている。それもそうだ。もう男女の色恋なんて、当分経験したくない。
ふふ、と笑った彼女は少し寂しそうに見えた。僕ももう、だいぶ酔ってきている。急に押し黙って前を向いた彼女に、すぐには声をかけない。色恋は面倒と言いながら、自然の成り行きで駆け引きを始めるのはいかにも男と女らしい。
「君の本当の名前は?」
彼女が黙って飲み始めてから三口目に、僕から訊ねた。すると彼女は髪を揺らし、静かにこちらを向いた。その表情が、あまりにも先ほどとは変わっていて、なんだよ、と心の中であっさり負けを認めた。儚くて、甘えを押し隠す表情にどきっとさせられた。
「花岡 美雪」
「綺麗な名前」
「さっきから名前ばっかり褒める」
「名前の話をしているからでしょ」
美雪はまた黙った。この子は喧嘩をするとひたすら黙り込むタイプか、と変に想像が膨らむ。
「あなたは?」と美雪がとろんとした目で僕を見た。彼女もだいぶ酔いが回っている。
「教えないよ」
「どうして」
「知ってどうするの」
僕が訊くと、美雪は答えず、代わりに僕のスラックスのベルトを指で撫でた。
「呼んでみたかっただけ。名前で」
美雪はまだ僕のベルトに指を沿わせている。
「どんなかんじか知りたいの」
「漢字?」
僕は少しずつ口に含んでいたウイスキーを一気に煽った。
「小学校低学年でも書ける漢字だよ」
そう言って、体ごと美雪の方を向いた。彼女に当たらないように開いた股の間に少し不安を感じ始めていた。
美雪はまた、ふふ、と笑った。彼女もこちらを向いた。実際は香らないのに甘ったるい。彼女を見ていると蜜のような甘さを感じる。
「そうじゃなくて。どんなかんじか知りたいって言ったの」
美雪の顔が近づいてきた。ぼんやりしたライトの下に、美雪の頬の柔らかさを目で感じとった。蜜のように甘いと思い込んでいた彼女とのキスは辛味のある余韻が残った。
美雪と無言で何度も唇を合わせていると、辛口のレディーキラーカクテルを作った本人と目が合った。なんの感情もなさそうな目をしている。どうせこの店の人間にすれば見慣れた光景なんだろうと思ったら、途端に制御が効かなくなった。僕は美雪の華奢な腰を掴むと、体ごと手荒く引き寄せた。
[完]