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掌編小説|風わたるキミ
いま来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ちいでつるかな
風の音を聞いていたのは中学三年生の夏だ。
三年生の教室は校舎の一階にあった。一階といってもグランドは校舎よりも低いところにあり、教室の窓を開ければ見下ろすことになる。
昼休みになると私たちは、窓の近くに椅子を寄せ、砂混じりの風を浴びた。
沙和は、まるで油粘土のような柔軟さで手すりに体を預けている。
「早くおばあちゃんになりたい」
そう言った沙和の、細くて茶色い髪が風になびいた。
「おばあちゃん?」
「そう。縁側でお茶を飲んでゆっくりするおばあちゃん」
この頃の私たちは、どんなに小さな世の中の変化も、間違いにも気づいていない、純真無垢な時代を過ごしていた。それを確かめることが出来るのは、例えば風の音。あの頃聞いた風の音は、今ではどこにも存在しない。傍らに沙和がいて、開け放った窓の下には、坊主頭の何人かや、足首のすぼまったジャージを着た大柄の体育教師がグランドを横切って行く。そこを吹き抜ける風。そのすぐ近くで、夏休みが鳴りを潜めている気配がある。私たちはそれに気づいている。だけど知らんぷりをして、いつだって、ほんの少し先の未来についてとか、はたまたうんと先の、例えばおばあちゃんになったときの話なんかをしていた。そんな私と沙和の横、あるいは正面から吹き付ける風は、そのときにしか感じられない音を響かせて通り過ぎて行った。
「いつもさ、うちらに注意しにきてたこ。ほら、あのこ。誰だった?」
ゆったりした口調の沙和は、画面の向こうで白ワインのグラスを傾けた。それを見て、私も自然と手元のグラスに口を付けた。
「『あのー、クーラーついてんすけどー』って?」
「そうそう、それ」
沙和が体を前後させて笑う。
「いたね。あのこの名前、思い出せないなあ。毎回同じセリフで注意すんだよね、うちらが窓開けてるから」
「なつかしーね。今ごろ学者にでもなってそうなタイプのこだった」
窓際が定位置だった私たちの斜め後ろから、規律委員の背の低い男子が声をかけてくるのはいつものことで、「空気の入れ替え中!」と彼を追い払うのは私の役目だった。
「沙和、寝なくていいの?」
んー、と曖昧に返事をした沙和の顔を、ついじっと見た。いつもより二重がくっきりとして、重たそうにまばたきをする。そのまぶたに手を当てたら、あっという間に眠りに落ちてしまいそうだ。
「見てのとおり寝不足なんだけどね。寝かしつけに成功すると、ついうれしくて飲みたくなっちゃうの」
「お疲れ様。よく頑張ってるよ、沙和。旦那さんは? もう寝てる?」
とっくだよー、と不満そうな沙和の声はグラスの中で響いた。
「グラス空いたなら、もうやめときな。沙和はそろそろ休んで」
「そうだね、ありがと。久々にりっちゃんと話せて、なんかすっきり。りっちゃんは? このあとどうする? 聖司くん、まだ?」
私はスマートフォンに触れて、もう何度も目にしたメッセージを確認する。
今からいくよ。
聖司から送られてきた言葉だった。そのあとに続く私のメッセージは、いまだ読まれていない。
「もう少し待ってみるよ。あと少し。まだ飲み足りないし」
「うん、明日お休みだもんね。じゃあ、私は寝るよ。ありがとねりっちゃん。お休み、楽しんで」
「うん。またね沙和。おやすみ」
沙和が画面からいなくなって、スピーカーから流れる音楽だけが聞こえる。新しいワインに手を伸ばし、少しだけ口に含んでグラスを置いた。飲み足りないと言ったけれど、本当はもう十分すぎるくらい飲んだ。一人になると一気に酔いが回って、見ている世界に霞がかかる。
無性に風を浴びたくなってバルコニーに出た。程よく冷房の効いた部屋から一歩外に出ると、とたんに湿った空気の重さを肌に感じた。
サンダルを引きずって、手すりに体を寄せた。仰ぎ見れば、蒼みがかった空に、白く朧気な月があった。有明の月は、まるで小さな切り傷のような形をしている。
おばあちゃんになりたいと言っていた沙和は、数年前に結婚してお母さんになった。今ごろは幼子と夫と三人で、川の字になり眠りについただろう。
撫でるように横切っていく風の音に耳を澄ます。今の私にぴったりの、退屈な音がする。いつまで私だけがここにいるのだろう。ここでこうして、起こるかもしれない変化に期待しながら、変わらずに夏を過ごし、また次の季節を迎える。
テーブルに置いてきたスマートフォンの画面が白く光り始めた。聖司は電話をかけるタイプだっただろうか。二人で過ごした記憶が薄れていることに気づいた。なかなか消えることのないその光から目を離さずに、数回、深呼吸をした。
部屋に戻ると、震えているスマートフォンをそっと持ち上げ、耳に当てた。風が鳴っている。どこか、遥か彼方で吹くその風は、私の知らない歌を歌い続けた。
白み始める空がなにかの終わりを告げるなら、今度こそ聞き逃すまいと、より一層、風の音に耳を澄ました。
(1995文字)
三羽さんの企画に参加します。
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