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短編小説 | 青写真の娘 | シロクマ文芸部

 青写真で見た娘が嫁いできた。
 未来を下書きしたような青い写真に映る、その澄んだ印象とは違い、実際の娘はどことなく怯えている様子だった。

 「なにか困っていることがあるかい」
 僕は、十四、年の離れたその娘に毎朝同じことを尋ねた。
 「なにも。全てありがたいことです」
 娘は下を向く。それで僕たちが一日に交わす会話の半分は終わりだ。

 夜仕事から帰宅し、娘の用意した食事を済ませる。風呂に入り寝る支度をする。毎日はその繰り返しだった。
 あるとき、あとから布団へ入ってきた娘に僕は尋ねた。
 「この家へ来ることは、きみにとって悲しいことだったかい」
 娘は下を向くことは無かったが、天井に当てていた視線を足元に下げた。
 「いいえ。とてもありがたいことでした」
 「そう。それならいいんだ」
 僕はそう言って、いつもそうするように娘に近づき髪を撫でた。
 いつだって緊張している娘を抱くことは、僕にとっても日々の儀式でしかなかった。
 「子供ができたら、きっとしあわせになるよ」
 僕がそう言うと、娘はただ黙って目を閉じた。

 そんな生活を半年ほど続けたある夜。いつものように布団に入ってきた娘は、深妙な面持ちで僕に言った。
 「子どもができたのかも」
 僕は少し顔を上げて、仰向けで寝ている娘の顔を覗き込んだ。
 「良かったじゃない。嬉しいよ。きみは嬉しくないかい」
 娘は最初、悩んでいるような難しい顔をしていた。その表情を奇妙に思って、僕はもう一度「嬉しくない?」と聞いた。すると娘は、今まで見たことのない下品な顔で「嬉しいよお」と言って笑った。


・・

 懐かしい一枚を引き出しから取り出した。嫁いできた頃の妻の写真だ。
 どういう訳か、確かに青と白だけで構成されていたはずの写真に、今では鮮やかな色がついていた。
 ミステリアスな印象だった青い写真は、ただの日常に佇む一人の女を映した、ごく普通の写真に変わっていた。
 「若い頃と何も変わらないんだな」
 写真の中の妻は、今の妻と同じ顔で笑っていた。もうあれから二十年が経つというのに。
 その時、部屋のドアが荒々しくノックされた。
 「起きてんの?早く買い物に行ってよ」
 妻に怒鳴られ、慌てて引き出しに写真を戻そうとした。それと同時にドアを開けられ、不自然な形で机の横に立ち尽くした。
 「なにやってんの」
 「べつに」
 「なに、見せて」
 写真に気づいた妻が、引き出しからそれを手に取って眺め、笑いだした。妻はよく笑う女だ。それはもう、この上なく下品に。
 「なあにみてんのよ、あんた。ここに本人がいるのに、なんでこんなもの」
 妻は写真を指に挟んで、雑に揺らしている。
 「なんとなく、若い頃のきみを懐かしく思ったんだよ」
 「なんでよ」
 「なんでって、若かったからだよ」
 「若かったから?」
 妻は突如、タガが外れたように大笑いし始めた。けたたましい妻の笑い声に、思わず両耳を塞ぐ。
 「あんたね、妻の笑い声に耳塞ぐか、ふつう」
 妻が素早い動きで腕を掴み、わたしに手を降ろさせた。
 「声が大きかったからだよ。だから……」
 「声が大きい? 昔はあんた、堂々としていいんだよ、とか何とか言ってたじゃないよ」
 「それは、そうだけど……」
 「つべこべ言ってないで、早く買い物に行きなさい。休みの日のあんたなんて、やることが無くてずっと引きこもってるんだから。いい? 買い物メモはテーブルの上。速やかに行動しなさい」
 妻はわたしの反論など聞こうともせず去っていった。

 去っていく妻の足音を聞きながら、今日はいつになく悲しい気持ちになった。あれから二十年が経ったのか。
 わたしは、そんなに悪い夫だっただろうか。
 妻から妊娠を告げられた夜、狂ったように笑っていた妻を呆然と見つめていたあのときのわたしは、なぜ、何かが狂い始めたと疑わなかったのだろう。
 三十路も半ばになったわたしが若い娘をめとって、嫌がる妻を毎晩犯し続けたように、子どもを腹に宿したあとの妻は、それまでの復讐と言わんばかりに、わたしをいじめるようになった。
 毎晩執拗にいたぶられた身体は、いまでは使い物にならない。歳をとったんだ。わたしたちは、そういう・・・・夫婦だったのだ。
 痛みを与えても反応を示さなくなったわたしに、妻はとうに飽きているのだ。この先わたしは、妻のお荷物でしかない。一人娘も来月には家を出る。

 わたしはもう一度、机の中の写真を見た。
 カラフルな色がついていた写真は、わたしだけにそう見えるのか、白黒に変わっていた。笑顔だった写真の女の顔は、酷く引きつっている。恐怖すら感じているようだ。
 わたしは食い入るようにその写真を見つめた。
 白目を向いた女の眼球は、モノクロの写真では白さが際立っていてわたしの興味を引いた。下の方で切れてしまっているが、女の首を包む両手は間違いなく私のものだ。
 これは幻覚か。それとも二人の未来予想図か。
 娘が独り立ちしたあとのわたしたち夫婦は、この白黒の未来に向かってゆくのだろうか。

 わたしはそんなことを考えながら、引き出しの奥にしまってあった、もう一枚の写真を引っ張り出した。
 結婚前にわたしから妻に送ったこともある、当時のわたし自身の写真だ。
 妻の写真同様、色を失ったその写真を眺め、ため息を吐くと同時に、恐ろしくなり、わたしは手で顔を覆った。
 その写真の中でわたしは、二十年分、年をとっていた。
 それだけではない。
 何を意味しているのか、そこに映るわたしの体は、奇妙にねじれているのだった。




[完]


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