それは違うよ、文七くん


2023年8月、灼熱の秋葉原で開催された落語会で季節外れの「文七元結」を聞いた。ここで、僕が長年抱き続けてきた文七くんと長兵衛さんに対して感じていたわだかまりが溶けてなくなった。高座の主は立川談笑さん、「令和版 現代落語論」の著者だ。
僕は2005年に放送された宮藤官九郎の傑作ドラマ「タイガーアンドドラゴン」以来の落語ファンなのだけど、寄席や落語会に通うわけではなく、散歩中や電車に乗りながら、過去の名人の音源を聞くだけのライトな落語ファンだ。
好きな落語家は、志ん朝や談志、桂米朝、桂枝雀といった名人達で、現役の落語家のことはほとんど何も知らない。僕にとって落語は、イヤホンを通じて聴く話芸であり、ライブで楽しむエンタメではなかった。生鮮食品ではなく冷凍食品を味わう感覚に近いかも知れない。安定感は抜群だけど、そこに新たな出会いやスリルは全くない。
いつだって、志ん朝が演じる「唐茄子屋」の叔父さんは厳しくて優しいし、談志の「らくだ」にでてくる乱暴者と屑屋の奇妙な連帯感は最高だし、米朝の「百年目」の番頭さんの苦悩にはちょっと共感するし、枝雀の「床屋」の旦那はどこまでもチャーミングだ。もちろん同じ話を何回聴いても楽しめるというのは、落語の大きな魅力の一つであり、名人の技術の証だと思う。ただ、談笑さんが大汗をかきながら熱演する「文七元詰」をライブで体験して、落語というのは固定的なコンテンツではなくもっとダイナミックでスリリングなエンタメということを発見した。そう、聴くというよりは体験するという感覚なのだ。
話を「文七元結」に戻そう。僕は特に志ん朝の噺が好きで、年末になると好んで聞いてきた。佐野槌の女将さんが最高で、何回聞いても彼女の説教が心に沁みるのだ。
ただ、この傑作落語を聞くたびに喉に小骨が引っかかったような気持ちも感じていた。なぜかというと、僕はお久と同じくらいの娘がいて、父親の立場からすると、見ず知らずの人を助けるために断りもなく自分の子供を売るという判断にどうしても納得がいかないのだ。もちろん古典落語だから今と価値観が違うのは当たり前なのだけど、それだけは片付けられない感情が湧いてくる。「長兵衛さん、子供はあんたの持ち物じゃないよ」とか「江戸っ子のメンツってそんなに大事か?」と問い詰めたくなる。それから、文七君にも言いたいことがあって、「君ねえ、お金のことで死んで侘びをいれるという手段は、あまりにも短絡的で想像力が足りないじゃないか?それで死んだら周りの人めちゃくちゃ迷惑よ」と説教の一つもしたくなる。
もちろん過去の名人の演じ方にも工夫はあって、お久は死ぬわけじゃないからとか文七の思いつめやすい性格なんかがとても上手に表現されているのだけど、それでもやっぱりわだかまりは残ってしまう。
こうやってわだかまりを抱えたまま「文七」を聴き続けてきたのだけど、灼熱の秋葉原で談笑師匠の高座を聞いて、さらにこの本の解説を読むと、20年近く喉に刺さっていた小骨が実にすっと取れたのだ。長兵衛さんと文七くんの判断が間違っていることに変わりはないのだけど、ちょっと気持ちは分かるよというように。
談笑さんの取り組みは、古典の魅力はそのままに現代に生きる我々の気持ちもケアして自然に楽しめるようにするという工夫だと思うのだけど、その辺が実に丁寧に工夫されていて、スっと共感できるようになるのだ。
不思議なことに、談笑さんの高座を体験してから、改めて談志と志ん朝の文七を聞いてみたのだけど、オリジナルの噺を聞いても違和感が減っている気がした。オリジナル版でも20年越しに二人の気持ちがちょっと理解できたような気になったのだ。
というわけで、たまには寄席や落語会に行ってみようかな。まだまだ新しい発見があるかもしれないし。

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