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目を見て話すことと数学

中学の担任だった数学教師が亡くなった。

まだ50歳そこいらだと思う。往年は肺癌で長く休職していたとのこと。

私の思春期そのものの人だった。

彼は田舎のヤンキーを体現したような教師で、常に煙草と珈琲の香りを纏った茶髪の長髪、ジャージ姿で野球部監督してる様は殴り込みを掛けに行くのかと見紛うくらい。

シャコタン改造車でエンジン音を響かせながら出勤。遅刻ギリギリでいつも走って登校する私を後ろから追い抜いていく。

尚、車社会の田舎である。畑の間にある中学につながる道は3本しかない。

この間、とある人と話していて、どうやら我が田舎は学級崩壊していたようだ。小学生が先生を泣かせて、授業放棄して図工準備室に篭ってしまったのを、説得に行くのは学級委員長の私の役割。

いつも虐められている子もいたし、女子グループで特に理由もなくいきなり外されたりもした。

中学では不良がピラミッドの頂点にいて、煙草を橋の下で吸っていたら次の朝には担任に校内放送で「おい3年A組◯◯、今すぐ職員室来い」と呼び出される。割と茶飯事。

1年生の弟達の学年は平和なので、この放送に恐怖を覚えていたらしい。

そんな田舎。

尚、クラスは2つしかないので、幼稚園から高校までこの輪廻は続く。私は高校で解脱したが。

2年になり、数学教師が担任となり、色んな意味で目をかけられていた。上手く使われていた、とも言える。

地域の教師達による研究授業の時は必ず発表させられる。その為のアイスクリームを作るために、土曜日に学校に行き、担任とひたすら卵の黄身と白身を仕分けた。

文化祭で新たな班(新聞や演劇やそういうの)の創成メンバーに抜擢?され、彼が選抜した次期生徒会メンバーによる、何故かものづくり班を立ち上げるところからさせられた(するように上手く誘導された)。

次期生徒会、高校受験を控えていたので(地元の高校は名前を書けば受かるが、都市の進学校はそうはいかない)やりたくないとごね続けた結果、副会長立候補という名ばかりのポジションに落ち着いた。

尚、与えられた生徒会室は非常に快適で、お菓子を持ち込んだり、勉強したりだべったり、バスケ部の部室よりも自由に使えた。彼の目的はこれだったのだろうか?

生徒会メンバーは全て越境で都市の高校に進学した。

私は、都市の高校の中でも一番の進学校を目指すように説得?された。

全くチャランポランだった私は、どの高校を目指すかなんて考えずに、取り敢えず真面目に勉強していただけの中身のない中学生だった。

定期テストでは9教科中8教科1位、数学は2位だった。(これは後々数学苦手につながり、大学受験前期落ち後期合格という危うい結果をもたらす)
彼はテストの回答が-1から20に並ぶように問題を作るやんちゃなインテリジェンスを備えた先生だった。

内申点は満点だった。真面目で地味な中学生だ。

中身がなかったから、3年生になって支庁全体の学力テストが実施され、志望校がギリギリだという事実を知り、職員室で毎晩受験したくない、もうこれ以上努力できないと駄々をこねて泣いた。

地元の高校以外に進学するには学区を越境することになるため、別の学区からは定員の5%しか採らない、という謎の規定が当時はあったので、各田舎の優秀な星達との戦いは想定より厳しかったのだ。

担任はひとしきり私を泣かせた後、内容は忘れたが、なだめてくれた。

その時に私の目を見て話をするのだ。

人にそんなに目を見られた経験は14年間の中では初めてで、彼の茶色い瞳に映る自分を見返せるようになるのに時間がかかったが、今では初対面の人の目を見て話せる。

娘の目を見ながら話しているし、うちの犬はアイコンタクトから躾が始まった。

毎年支庁一番の進学校へ我が中学から1人は行っているのだが(わずか320名中16名の枠なのだからなかなかに快挙である)、職員室で泣き散らかすのは恒例行事だ、と後から教えられた。

そして職員室で最後になってしまった日は、彼のヤン車で家に送って貰った。

あれは恋だと思っていたが、当時私は彼氏がいたし、恋だけでは表しきれない感情だった。

今になったらわかる。

あれは尊敬だ。

だから、彼の死は私の思春期の思い出との決別である。

先生、ありがとうございました。

先生のお陰で私は広い世界を知って、自分らしく今生きられています。

どうか安らかに。

父に会ったら、父にもお礼を言うように伝えておきます。

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