見出し画像

父親の葬式レポート

北海道式であり、19年前の出来事であることを予めご了承頂きたい。

父親は3月のとある冴え渡って晴れた寒い朝に死んだ。自死だ。
大学1年生を終えようとしていた私に知らせを入れたのは末の弟。それから私は母親の親戚の車でリレーされて実家に辿り着いたのは、もう夕方になる前だった。

玄関を開けたら、父の母が泣きながら縋り付いてきた。ここで私は事態の深刻さをようやく飲み下す。
居間では大人たちが打ち合わせをしたり、ひっきりなしに父親に手を合わせにくる親戚や仕事関連の人達で家がごった返していた。

私が彼の遺体を見て最初に思ったことは、ああ、本当に吊ったんだな、ということ。
首には縄の擦り傷があり、噛み締めた唇はもう二度と言葉を発さないだろうということ。
あと、我が家の最上等の客用布団に寝ていて、良かったね、というのと処分されるのは勿体ないという、本当にくだらないこと。

とりあえず客が引けて母と私と弟2人と母の父母は寝ることにした。なんとなく父の隣に寝た。
最後に会ったのは正月に帰省したときで、もう長くない気がしていたのを無視してしまったから。

前日なんやかや疲れたので朝なかなか布団から出られずにいたら、祖母に尻を引っ叩かれた。
母ではなく、温厚な祖母にやられたのだから、起きない訳にはいかない。

またも日中は忙しかった。弔問客に頭を下げるのに。ただ、胸中では父は解放されて良かったと思っていた。この結果に至る色々を見てきた人間として、苦界からエスケープすることは正解の一つであると。但しこの考えは母と真っ向から対立する。

夜になり、線香を絶やさないように交代で眠る順番が来た。(前日はどうだったのかまるで記憶にない。その線香のすぐ真下で寝ていたというのに)
母親を起こしに行った。
声をかけた。
母親は悲鳴をあげて必死に謝り始めた。
以来私は不眠症を友として生きている。

通夜の前の日、納棺が行われた。
近親者で末期の水をとらせ、最期の衣に身を纏わされる時、死斑なども何一つ見逃したくなかったが、納棺師は鮮やかな手つきでそれを隠した。ドライアイスでカッチカチの彼の組んだ手を外すのは困難で、関節をいくつか折られて棺に収まり、仏間から町の葬祭場へ向かった。
やっぱり上等な布団は廃棄された。
親族の菩提寺の若僧(代替りしたばかりだ)は新装が終わった寺を使いたがったが結果として、町の式場で正解だった。現役だった彼にはあまりに参列者が多く、寺には収容出来なかっただろう。

通夜の日の記憶も余りない。雪だった。
会が始まり次々に弔辞や弔電が読み上げられ、椅子は足りなく立っている人もいた。涙は出なかった。
母親と弟が泣いてばかりだったからだ。

私は父と一番性質が似ていて、三兄弟の長子であることや、読書が好きなこと、場で笑いを取りに行くことや、融通が効かなく真面目であること。決めたら貫くこと。だからもう、その場で父を演じることが始まったのだろう。

通夜が終わり、弔問客の見送りに外にでた。
自分の格好のはしたなさに愕然とした。
入学式用のペラペラな黒さに深みがないスーツ。
学祭のコスプレ用に買った踵の高いピンヒールの先が尖ったパンプス。
極め付けは腰まで伸びた金髪だ。
葬式に余りに相応しくない。

高校の恩師達が頭を下げに来た。私と弟が通い、末の弟がこれから入る高校だ。弟は入学式には出られないだろう。

葬式の朝は父の職場のトップが最も早く席に着き開始を待っていた。後にタイムカードが導入されたと聞いた。それでも彼には関係なかったように思う。私もワーカホリックなのだから。
相変わらず冬晴れの日だった。式の間中流れていたハ短調の曲は私の頭にこびり付いて今でもふとした拍子に占拠する。私は先に葬式プレイリストを作成しておくことにする。思いっきりパンクなやつ。

棺には色々なものを入れておいた。
小銭、レコード、未読だった文庫本(私が先に読んでしまっていた)、マイルドセブン。棺に入れられた百合の香りが鮮やかに今でも思い出される。釘で打ちつけられ、マイクロバスな霊柩車に乗り出発した。私は黒塗りの霊柩車に乗せて欲しい。
霊柩車は自宅と職場の前でクラクションを鳴らし、町唯一の火葬場へ向かった。私もそうして欲しい。

二基しかない炉の扉が閉められ彼は肉体を永遠に喪った。外に出て煙突を見上げると、燃え残った文庫本が天に昇って行った。
祖父母は遺骨を拾わなかった。逆縁だからだ。私がもし母より先に死んだら是非拾って、骨壷で砕いて欲しい。棺には花以外には何も入れなくていいけど。望むのであればダイヤモンドにでもなろう。

その後は寺で繰り上げ法要の初七日を済ませて帰宅した。仏間に飾られた遺影は何かの集合写真をくり抜いた合成のイマイチな写真だ。
彼の実家の遺影は彼らしい写真が選ばれているが、私達がそこを訪ねることはほぼない。

母親が父の自死の責めを負い義絶してしまったからだ。弟達も色々と見てしまったようだから、もう修復は難しいのだろう。私は一人暮らしをしていたから詳細は伝聞でしか知らない。
私は道化を演じて自分の結婚式や法要で場の雰囲気を軽くすることに努めている。

母は17回忌に至るまで月命日の法要を欠かさなかった。あと、新聞のお悔やみ欄と香典帳を毎日見比べて必死に香典を届け続けている。

供養のお陰で肉体はとっくに成仏したらしいが、精神はまだ頑固にこの世に後悔で縛られている。さっさと成仏しなよ、と言ったらやってみる、だってさ。
相変わらずなじーさんだわ。

もし祖母が亡くなったら、おじに頼んで家を貰おうと思っている。私が幼少時代最も好きな場所であったし、父の供養になる気もするし、娘にも走り回らせてやりたい。彼女は父と同じ戌年生まれだ。
それに地元の老人ホームは満杯で入れないが、父の町なら入れるから住所を所有しておけば母の為になるだろう。
母は北海道を離れる気などさらさらないようだから。
それに、私が結婚して北海道を出るときに、母親に彼氏となる人を紹介しておいた。
父に囚われ続けては前には進めない。
お金はないが、あの気まぐれな母に長く付き合ってくれている。籍はもう入れずとも、土いじりが好きな人だから、広大な畑がついたあの家を気にいるだろう。



初七日があけて大学に戻った。最初にやったことは、父の死亡診断書を学生係に提出することだ。
死因は縊死。直腸温は35.3℃。検死医は町に一つしかない老健病院の院長だった。

先輩に言われた言葉。

親より先に死なないのは、最低限にして最大の親孝行やで。


病気がちの私がこれを果たせるかは不明だが(先に死んだもん勝ちだと思っている)、娘の為に少しだけ長く生きる努力はしてみようと思う。


いいなと思ったら応援しよう!