破壊と再生を語る /ファシリテーション一日一話
昨日は横浜にあるNPO法人umiのいえで「辰年における破壊と再生のワークショップ」なるものを進行した。お産や子育てを切り口にたくさんの人が集うこの場に12名の参加者が集まって、自身の人生に起きた破壊や再生の物語を語った。女将が「ちょっと部屋を暗くしましょうか」なんて言うもんだから、最終的にはローソク一本で終日、暗い洞窟のような部屋で語り合う場になっていった。
炎は不思議だ。そのゆらぎを見ていると、つい言葉が出てきてしまう。幾人もの参加者が「この話はするつもりじゃなかったんだけど、、、」といって、過去の自分に起きた破壊のエピソードを語り始めた。壮絶なものもあれば、抱腹絶倒の逆転劇もあった。言葉は発しないが、静かにそれらを受け止める参加者もいた。僕の役割は、どの発言に対しても敬意を払い、体全身で受けとめることだった。
気がつくと、自己紹介すらしていない仲間たちが、それぞれの人生の葛藤を赤裸々に語り合っていた。むしろ、それはしないほうがよかったのかもしれない。灯りも暗く、お互いの表情がよく見えないぐらいだったのも、かえって好都合だったのかもしれない。
お昼ご飯に、慈愛に満ちた美味しいランチ・プレートを頂いたあと、珈琲を飲んだ。なぜかこの場所にくると、僕は珈琲係と認識されていて、参加したみなさんのために珈琲をいれた。苦くていい豆であった。
午後は、好みの色の画用紙を手に取って「破壊と再生」をテーマにクレヨンでお絵かきタイムをやってみた。あいかわらず暗い照明のなか、手探りでクレヨンが動く。描くものに迷いのないもの、すぐに書き終えてしばし考える者、いつまでも細かく手を動かしつづけるものがいた。皆の描いたものを回し読み、味わう時間をとった。テーマは「破壊と再生」という共通のものだが、描かれるそれは、まったく異なるものだった。ぐるぐるらせんを描く人や断ち切られた枝の大木を描く人もいた。破壊の絶望のふちから舞い戻った希望を描いた人もいた。皆で対話しながら鑑賞し、さらに話は「再生」に向けて深まっていった。
外では野鳥が声高く鳴いていて、しきりと、なにかをさえずっていた。話ながら涙を流すもの、拳を振り上げるものもいた。女将が「私はアクションがしたい」と言い始め、なぜか皆で、その場で即興演劇をつくる流れになった。「焼き尽くしてやる!」と強い言葉を発した流れを受け、灯油をまくもの、風を吹かすもの、もだえうちながら燃えてゆくものが、躍り出た。僕とあと一人が太鼓を打ち鳴らし、なぜか篠笛をもってきた参加者が囃し立てた。
人生におきた辛いことや、どうしょうもない苦しみは、言葉で語り尽くせない場合がある。その時は、演劇のようなやり方で、皆でそれを表現し、昇華することも可能だ。僕が勉強したかぎり、一番古いタイプのワークショップは、即興演劇なんじゃないかと思う。台本のある演劇ではなく、その場で生まれてくる流れをつかまえて、皆で一つの表現を試みる流れは、一人ひとりの個人というより、まるで一体の龍のような動きのある時間となった。
さんざん「破壊と再生」の話をしたら「絶望を語る」ことの重要性があるような気がしてきた。なので、次回は「絶望を語るワークショップ」にしよう、と決めて、その日は解散となった。流れに身を任せ、出てくる言葉を受け止め、皆でダイナミックに動ける感じは、好きだ。
次回3月4日(火)に「絶望を語る」をやります。横浜においでになれる方は、ぜひ。詳細は追って。